リツエアクベバ

satomies’s diary

翻訳という世界

 英語と日本語。英語文化のものを翻訳された形、それを素直に受け取る程度の力しか持っていない自分。
 ブログという場に書かれた、あるひとつの曲の歌詞の翻訳。これをプリントアウトして、一本のビデオをプレーヤーに入れ、わたしはテレビの前に座る。この翻訳がなされたシーンを早送りで探す。
 再生するビデオは古い古い映画。リバイバル上映の名画座で、何度も何度も観た映画。DVDは日本では発売されていない、VHS製品もすでにレアもの。これを置いているレンタル屋も、もうほとんど無くなったのではないかとも思う。
 ああここだここ。自分に科せられた幾多のものに疲れ果てた男を眠らせて、この女性は外に出る。そして歌う。
 歌が流れ、字幕が出る。字幕ではなくプリントアウトした紙をもって、文字を追う。耳には苦悩する女性の声が流れる。
 わからない、なんて言っていいかわからない。自分の中に動く思いというものを表す言葉が見つからない。知り尽くしたシーンを観ながら感じながら、両手で顔の半分を覆い、ただ涙が出てくる。
 何度も何度も繰り返して観たこのビデオ。字幕の文字も自分の中に入っていたようなもの。でもさ、絶対こっちの方がいいよ、と、プリントアウトした紙を握って思う。絶対こっちの方がいい。自分がこの女性の声から、シーンでの表情から、声の表情から、ずっと感じていたものはこっちだよ、と、紙を握って思う。日本語文化と他言語文化を行き来した一人の人間から、言葉という世界の中で、ブログという場で、ひとつの贈り物を手渡されたような感じ。
 「試訳」って書いてあった。この「試」ってこと。やってみた、ってことかな、と思う。この「試」の結果って、訳した人間にとってどうだったんだろう。どこか改善したいところがあるの?それはどこ?とも思う。「試」の先はどこに行き着くんだろう。
 プリントアウトしたのはコレ。
クリトリス・バター・クライスト/セックスなんてくそくらえ
 ここからリンクされるブログに、この曲を試聴できるアドレスが貼ってあったけれど、なんというかその歌はきれいすぎて哀しみを感じない。わたしにとってこの作品は、もう、やっぱりやっぱり’73年度版でしかあり得ない。この曲を歌うのは、わたしにとってはイボンヌ・エリマンでしかあり得ない。

 この曲を歌うときには、まだイエスはマリアのそばにいた。この後イエスは捕らえられ、その捕らえられた姿に衝撃を受けていくマリアのベースを作っている、大事なシーンで歌われる曲。