リツエアクベバ

satomies’s diary

書き初めとかピュアとか

息子の冬休みの宿題の書き初め、昨日慌ててやってた。なになになに書くの?と聞いて、ここから選べと列挙された言葉を見て思わず笑ってしまう。いや、なんつーか、あの、クサくて。
「新年に決意や目標を書く」という課題。書く言葉は提示されているいくつかから選ぶ。そこに並べられた言葉の数々は、まあ真面目な文句と言えば文句なんだけれど。「理想の実現」ってな言葉を中学生がホンキで書いていくのかい?って考えちゃうんだけど、それってわたしがスレた親だからなんだろうかとか。いや理屈を越えて吹いちゃったんですけど。
小学校のときの書き初めの課題で記憶にあるのは「希望の春」。なんつーか、これはおかしくない。なんかさ、中学生に「理想の実現」とか「歴史に学ぶ」とか、こうホンキで渡しているような感じがちょっと変な感じがしたんだ。そうやって押しつけられた仰々しい言葉を前に、誰が本気で「決意や目標として」書くんだろう、ってな感想。「決意や目標」なら自分で考えて書かせりゃいいのに、とも。渡された楷書と行書のお手本は、どうせパソコンのフォント使って作ってあるプリントなんだから。提示された中からの選択じゃなくてその提示が「例示」ならまだわかるなあと思った「理想の実現」。
さてさて息子が選んだのは。仰々しい言葉が並んだ中で柔らかい部類だった「明るい未来」でした。「明るい未来」を生真面目に決意や目標にしなくても、「明るい未来」と元気よく書ければそれでよろしとか思う。「決意や目標」ってどこまで本気で言ってるんだろう。中学から渡される精神教育的面に関して、なんか時々「大人の建前」的感覚をわたしが感じてしまうのは、わたしの精神性がまだまだ思春期レベルなのかも。
娘の特別支援学校にも書き初めはある。娘を入学させて最初の一月、階段上がった踊り場のとこに高等部の生徒の書き初め作品がばばばと並べて貼ってあって。とんとんとんと階段上った途端に目の前に開けた世界に度肝を抜かれたほど感動した。あの感動は忘れない、元気よく紙いっぱいに書かれた「あんまん」と、その隣に並んだこれも元気よく紙いっぱいに書かれた「菅原文太さん」。角張った漢字で書かれた「京浜東北線」ってのも大好きだった。なんかこう、ストレートに書いた子の精神世界が開ける感じがした、その感動。それから毎年一月に校内に作品が貼り出されるのを見るのが大好きになった。
知的障害がある子に対してピュアとかって言葉を使うことがある。それはそもそも、こういったストレートにぶつかってくるものに対して向かい合った時に出てきたものなのではないかとも思う。そういう直球ストレートにぶつかると、知的な能力の成長と共にいかに回り道やら紆余曲折やら、何かを習得していく中でいろんなものを後回しにしたり感じなくなったりしていったものが自分にあるんじゃないかみたいなとこに自分自身がぶちあたるような感じ。
直球ストレートにぶつかると、時々はっとさせられる。そうかとか思う。でも。
知的障害がある場合の直球ストレートは、なんだか美しく語られることのある「ピュア」ばっかりじゃない。整理がつかないことがマイナスに働く、直球ストレートの感情が難しいことになっちゃったりすることもある。そんなごちゃまぜの雑多なとこにも障害の障害たるゆえんのとこがいっぱいあって、そこに困難だっていっぱいあると思う。
そんなごちゃごちゃの困難の中、どんとストレート直球の中に、そうかそうだったよなそうだよな、ってとこがあることがある。そこにどかんとやられる、って時があるんだよなと思う。うまく言えないけど、なんか何かを思い知らされるような感じ。
ちなみに娘の書き初めで、彼女が選んだ言葉でわたしが大好きな作品になったのは、紙いっぱいに元気よく書かれた三文字。その三文字は「おもち」でした。ちぃちゃん、お正月は楽しかったね、って、そういうのをぽんってわたしは受け止めた。筆ででっかく書かれたステキな世界だよね、って思うな。