福岡の事件について/bimbomの日記2
それから、母が病気で仕事をやめて子どもの世話ができない場合のサポートって今どういう風になってるんだろう。不可能なことは続けられない。将来を悲観したというより今が不可能だった可能性もあるんじゃないかと思った。支援センターの相談とか言ってるけど、気休めの言葉なんてはっきり言って何の役にも立たない。相談したって日々の生活は何も変わらないからだ。「気を楽に」とか言われるけど、気を楽にしたら楽になるわけじゃないのが発達障害児の育児。心の持ちようで大変になってるわけじゃなくて物理的に大変なのだから、必要なのは物理的なサポート。
カイパパ本を引っ張り出してくる。ぼくらの発達障害者支援法。
それからカイパパの過去エントリを引っ張り出す。
すべての涙が乾くとき〜発達障害者支援法成立/カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル
名古屋や稲沢や刈谷や岡崎や豊川や藤岡町などで起きてしまった事件や虐待死や無理心中が二度と起きないようにするためには、どうしたらいいのか?
寄り添って一緒に考えてほしい。
この法律は「涙で書かれた約束」だ。
すべての涙が乾くとき、発達障害者支援法は役割を終え、時代は変わる。
私はその日が見たい。
(中略)
今は、夜明け前。
「うっかり死んだりしない」と、ゆびきりゲンマン♪
「続き」を一緒に見ていこう。
ああ本当にまだ「夜明け前」なんだな、と思った。
子どもが幼児か学齢か、ということにも大きく関係があるとも思う。幼児期の保育所申請には「主な養育者が病気や障害のため保育が困難なとき」という理由が使える。娘が保育園に通った自治体では、保育所にこうした理由による短期間の緊急一時保育の制度があった。しかし学齢期になってからこうした理由での学童保育利用では一般的には難しいと思う。
難病患者に対してのヘルパー派遣。これで少なくとも家事支援にはありつける。しかしこの場合、その難病は「国が定める厚生労働科学研究難治性疾患克服研究事業(特定疾患調査研究分野)の対象疾患患者及び関節リウマチ患者」の中に入っていなければならない。
ここで思い出すのは、HANDS世田谷の話。
自立生活センターとは、障害者が運営し障害者にサービスを提供する機関で、1972年カリフォルニア州バークレーに設立されてから日本にもその動きが伝わっていったもの。
で、HANDS世田谷の方のお話にあったことで、そうかと思ったこと。
介助者派遣のサービスを求めて、「障害者ではない人」が駆け込んできた。話を聞いてみるとそれはその生活に支援者が必要であるだろうとうなづける話だった。しかしそのサービスを「希望する人」は「障害者ではない人」で、本来この自立生活センターでは対象とはならない人だった。
ただ。断ることはできなかった、と。その人のための支援を提供していくことに決定したと。その理由とは。
「あなたの希望するサービスは、ここでは提供できません」と帰すことができなかった。それは自分たちこそが、今までそうやってお役所に「ここにはない」と門前払いを食らわせられてきたことが多かったからだ、と。そこで(ではどこに行けばいいのだ)とくちびるを噛みながら引き下がること。自分たちこそがそれをさせる立場になるわけにはいかないのだ、ということになったと。
それと、障害保健福祉研究情報システム(DINF)ホームページから、対照的な二つをリンク。
文学にみる障害者像 岩野泡鳴著『背中合せ』
現在もなお、肉親による障害者(児)殺しのニュースが流れることがある。悲劇を生むに至った道すじは、そのまま「福祉」の脆弱な実態を物語っており、事前に防止できなかったことに対して私たちの胸は痛み、時には憤りすらおぼえる。
過去に限りなく繰り返されたであろうこのような悲劇を、明治・大正期の日本自然主義文学作家の一人、岩野泡鳴が短編『背中合せ』で克明に描いているので紹介したい。
レスパイトケアは優しさの源
気持ちにゆとりがあって初めて人は他の人に優しくなれる。家族が家族として和やかに生活できるために、1日も早いレスパイトケアの制度化が望まれる。
あと、いろいろ検索していて、政治家のサイトにたどりつく。ここも興味深かった。