リツエアクベバ

satomies’s diary

障害、このごろ

今日、娘を連れて地域作業所に行った。来週から始まる後期二つ目の実習先の事前面接。後期一つ目と同様に「オリエンテーション」と書かれた本人用のルビがたくさんふってある文書が用意されていた。先日実習を行った事業所と同様、目次は「本人の自己紹介」からで、本人が自分の名前を言って「よろしくおねがいします」という挨拶から始まるものだった。高2の時の実習先も、前期二つの実習先も、大人中心の事前面接だった。順番が逆だったらこの時点で実習先に軽い失望を抱いたかもしれない。どっちを当たり前にしてしまうかで心情が左右されかねないところはあると思った。
また来週から実習が始まる。今度のところはスペースがとても小さい所。高1の春休みに見学に行った時に、(この小さいスペースで何年も作業を行うのか)と思った。学校という空間に比べての小さい世界がとても気になったところはあった。ただ、いろいろなところの実習を重ねていってからこちらに来ると、その小さい空間にほっとしている自分がいることに気づく。娘本人は、すでに実習を重ねてきたからか、それとも小さいスペース、見渡せる世界に安心しているのか、今までの面接よりも緊張状態は薄かった。母子共々、やっと肩の力が抜けてきたということなのかもしれない。
明日は自立支援法の障害程度区分認定の調査がある。学校にて担任も同席。支援費制度は利用しなかったので、手帳の更新以外では初めての経験。大人への階段がどんどん用意されていく。
娘がもつ障害の状態、障害からくる支援の必要性、障害に対しての具体的支援。この固い漢字ばかりの言葉の中で、娘の障害の状態を考えてアレンジされていく世界がある。そのアレンジのいろいろなポイントで、娘やわたしは緊張したり安堵したりする。
心を落ち着かせてくれるのは、その障害に対しての支援の中の細やかな視点だと思う。支援や支援に対しての心配りが充実されるためには、障害自体がきちんと認識されることが重要だと実感の中で思う。普通の人が難なく行うことに対してハードルが存在すること、障害をもつ人、障害をもつ子ども。そこで「障害者、障害児」という言葉を使うときに、取り立てて「害」の字ばかりに注目しようとするのか、やっぱりわたし自身はわからずにいる。この子の染色体異常という原因から発している知的な能力に対しての問題自身が重要であり、この「障害」という言葉を「者」や「児」に付けるときだけ熟語の文字の漢字やひらがなの表記をばらばらにしてどうにかなるものでもないとも思う。「障害」と書こうが「障がい」と書こうが、大事なことはその表記ではなく、そこに存在している中身だと思う。