リツエアクベバ

satomies’s diary

追い越していくときのこととか

 TBSのドラマ「だいすき!!」。第一話第二話と見て、その後すっかり忘れてしまって第三話と第四話と飛ばす。なんとなく(ああこういう線か…)と、とりあえず関心が満足してしまってたとこもあるかもしれない。見るの忘れちまっても、あ〜あ程度。
 第五話の日、息子が「おかあさん今日はあのドラマ観ないの?」と聞いてくる。ああ忘れてた、そうだったね。ん?アンタ観たいの?
 うんとうなづくので、おお、んじゃ10時までに寝る支度しておきなさい、いっしょに観ようね、と。ふふんふんふん、程度。
 で、観ましたら。やられましたね。こう来ましたか。いやこのドラマ自体がどうのってことじゃない。ウチにとって、わたしと息子といっしょに観ることが重要だった、この回。

TBS『だいすき!!』あらすじ/ 第五話「遊んでくれないの」

 いや〜、このあらすじの記載は不十分でしょう。あのね、5歳の娘がやりたい遊び、やって欲しい遊びってのが、軽度の知的障害があるかーちゃんには、もう、難しいこと、できにくいことのレベルになっちまっていってるんだな。
 このときの、このドラマの中での「娘」の思うこと、「娘」のリアクション、「娘」の感情ってのが、ウチにとっては重要だったわけだ。ここに展開された光景は、ウチでは「姉」と「弟」に見られた光景だったから。
 第五話のタイトルが象徴「遊んでくれないの」。いや遊んであげないんじゃなくて、それがもう難しくなっちゃってるからなんだけど。遊んでくれない、じゃなくて、遊んであげない、でもなくて。「そのレベルではもういっしょには遊べない」。それをこのドラマの中の「娘」は「遊んでくれない」と反応する。そして「おかあさんはわたしのことが好きじゃないんだ」と悲しむ。
 そうそうそうそうそうそう。そ〜だったんだよね。「ちぃちゃんが遊んでくれない」って泣いた。「ちぃちゃんはボクのことが好きじゃないんだ」って言った。そしてたくさん泣いたんだよね。息子が選ぶ「いっしょにしたいこと」のレベルが日々上がっていく。娘はそこについてはいけなくなる。それは息子にはわからない。いや本当に「わからない」んじゃなくて、「わかりたくなかった」のかもしれない。
 そうして息子が「姉といっしょにしたいこと」がいっしょにできなくなったとき、息子は「いっしょに遊んでくれない」って泣いた。「自分たちの今まで」とは違ってしまったことに対しての悲しみみたいなもの。失っていくもの。はっきりと認識して長い時間泣き続けた日。なかなか忘れられるものじゃない。わたしは。泣かせてやることしかできなかった。そこで何を言ったって、失ってしまったという事実は変えられないと思った。理解は「しろ」と言われるものではなく、「する」ものだとも思った。「する」ためにはここを越えなきゃならないんだろう。
 ドラマで展開されていく光景は、うわ〜って感じ。いやドラマ自体はそんなにたいしたことないんだけど、こっちが呼び起こされてしまうシーンのひとつひとつがこっちに対してはなんつ〜か、ドキッとずきっと、けっこうくるわけで。
 「たったひとつのたからもの」とか「僕の歩く道」とか、テレビに出てくるシーンに対してそれなりに説明したり、なんらかの質問を出してきたり、その質問に答えたり。息子と二人でこういう障害系のドラマ観るときは、そんな対話の中で観てたりしてたんだけど。この「だいすき!!」の第五話はそんな説明は要らなかった。ドラマを観ながら、なんとなく二人で肩を寄せ合って観てた。ここ越えるのに時間かかったよねえ、って言った。息子は小さな声で「うん」って答えた。
 今はもう泣かない。息子は娘と「遊ぶ」接点をちゃんと知ってる。いろんなことを越えてそのポイントをもう一度見つけたとき、「おかあさん、ちぃちゃんが遊んでくれた」って言った。そのときには息子は「姉の障害」をとっくに認識してたけど。でも「遊んでくれた」って言ったんだ。
 今はもうそんなことを言うこともなく。分かれてしまった発達ってことがあって、しょっちゅう二人で遊ぶわけでもないけれど。でも二人で遊び出すと二人でやたらにテンション高くって、うるさくって仕方がない。いろんなこと、この子が越えたんだなあとか思う。