リツエアクベバ

satomies’s diary

昨日とか今日とかで思ったこと

想像力

人を思いやる気持ち、人の立場にたって考える、ということは、決して「私だったらどうだろう」ではないと思うようになりました。
そうではなくて「あなたが言われたら、どう思うか」という気持ちを持たなければならないのではないかな。
2008-02-08更新分 キャリンさんのコメントから

 「わたし」じゃなくて。「わたしだったら」じゃなくて。「あなただったら」「あの人だったら」「こういう層の人だったら」。そういう想像力が大事なんだろうな。

しかし今のところ、それを勘違いして「私がもしあなたの立場でも、それくらいで傷つかない」という思考の人が多いように感じられます。だからこその善意の押し付けであるのだろうな、とも。
でもそういう人に限って「自分は気遣いができる」と考えているようなのでそれが困りものだと思う日々です。
じゃあ自分が出来ているのかと言われれば、これまた心もとないんですけどね。
2008-02-08更新分 キャリンさんのコメントから

 なかなかわからないことは多いし、わかってる風な勘違いをしてしまうこともあるだろうし、そして失敗もするし。でもこういうことは忘れたくない。

梨元さんが語ってます

倖田來未の発言に考えさせられる - OhmyNews:オーマイニュース

 動画のリンクです。梨元さんが語ってます。動画という形で姿見せて語っているのが肉声っぽくておもしろかった。

  • 発言がネットから起きる時代で、ことの展開が早くなっていること
  • 収録であることの問題
  • 受け手への配慮に関して
  • 相手側を意識しての批判とは違う

 こうしたことなんだけれど、この後に続く話題の中で「期待されるコメントを言おうとして起こしてしまう失敗」「コメントから見えてしまう人物像」などにも触れられていました。失言の例が多く具体的でおもしろかった。

「耐性」を作っていくもの

西川史子、かわいそう(倖田來未関連) - C M シープラスエム
えこまさんとは認識が違うのだなと思わされる。えこまさんは西川史子に代表される層について「問題は彼女ら自身の中にある」、「これは、とても個人的な問題だ」、「自分(西川史子)の劣等感」と言っている。ボクはそうは思わない。

 「個人」だから思うこと。「個人」だから気づくこと。でもそれは「個人的な問題」でくくれないこと。そういうことはたくさんあると思う。「個人的な問題でくくれないこと」に関して、「個人の問題でしょ」と投げ帰されること。こうしたときに出てくる「被害妄想」「自意識過剰」ってワードは使いようによっちゃかなり強烈な罵りにもなる。
 そういうときに常にマサキチトセさんが出てきて「それはね」って言ってくれるわけじゃない。ふむ、自分の中のこの例に見る「マサキチトセさん」を構築していこうとすること。それはつまりは全体像を思考していこうとすることであり、個人がズキって痛むということに対して必要な耐性を身につけていくってことかもしれないとも思う。必要な耐性を身につけて全体像を見通そうと努力し。そして自分に足りないことにちゃんと気づいて足りないことを拾い上げて。そうやって前に進もうとすることが大切なんだろう。「気づく発端はわたしが思うわたしの問題かもしれない、でもそこにあるものはわたしだけの問題じゃない」。