リツエアクベバ

satomies’s diary

うっわ〜、おもしれ〜、すっげ〜収穫

 ぽっこんぽっこんとあっちこっち飛んでふむふむ読んでいて。なんか骨っぽい議論が盛り上がってるとこだなあと思ったブログ。対話が繰り返されている主な登場人物にはそれぞれのキャラがありそうなんだけれど、飛び込んだ人間にはすぐにはキャラは把握しきれず。途中から観る映画のように、その登場人物のセリフ自体よりもキャラ把握に混乱してたというか。いや途中から観る映画の方がまだわかりやすい。顔があるからね。
 なんて前置き。丹念に流れを追いながら、自分とこを紹介してもらっていたのをいいことに、ちょこっと参加した。ドキドキ。
 そしたら収穫。黒猫亭さんpoohさん とこに書かれたコメントが、わたしには興味深すぎる。読みながらワクワクした。

表現者/Chromeplated Rat:コメント欄

 ここでの黒猫亭さんのコメントは、記録として全文いただき。長くなるんでたたみます。感想を先に。
 率直なところで非常に興味深かった。また問題性の認識が非常によくわかった。単純な相手批判ではなく、ご自身の思考がその根底にはきちんと存在していることがまたよくわかる。そして(ま〜しょうがないかな)的耐性をもっていくようなこの種のことをこういう風に骨っぽくとらえる人の存在というものが「ほらな、人生そんな捨てたもんじゃないぜ」ってとこに見えない線でつながっていくんですね。とも思う。世間一般というもののもつ感覚は容易に入手できる。ただこうした語られ方をするものは、なかなか直接的には届かないし、そしてわざわざ口を開いて語ってもらえる機会も少ない。ただ、わざわざ語られないだけで存在はしていて、そしてそういう人とまた、自然に出会っていくという線がある。そういう線というものは、「障害をもつ子を育てる親」をとても支援していく線だなあとわたしは思います。
 あと。黒猫亭さんが読んだかどうかはもちろん未確認ですが、わたしはブログアドレスをぱっと開いた時点で「15日表示」の設定がしてある。だからまあ、開いて上から下までざざっと流し読みが可能な状態になってる。現在の状態でぱっと開くと、うひゃひゃ「すっげ〜悩んでる」といろんな人にかまってもらいながら、おっそろしくあっという間の展開で「車買っちゃったよ」が出てくる。それが黒猫亭さんのおっしゃる「聖人君子でも何でもない極普通の生活者の一人であるという事実」につながってるのかと思うと、くすくすと可笑しく、そしてうれしく。また、くだらんエントリ上げって大事〜、とか思った。
 ってことで、コメント全文は↓です。コメントの流れを読む場合は「表現者/Chromeplated Rat」へのアクセスにどうぞです。

>satomiesさん
エントリーで発言を引用して戴いた黒猫亭です。

>>で、今回の発言に対して「問題である」とする場合、何をどの程度どういう風に「問題だ」としているのか、けっこう興味があったりするわけです。
satomiesさんは、世の中の人間が倖田來未の発言の「侮蔑的側面」としている部分の当事者の立場から論評しておられるわけで、poohさんが仰るようにこういう視点というのは「そうでない立場」の人間には持てませんから、貴重なご意見であると思います。
その上で「そうでない立場」から引用のようなsatomiesさんのご興味に答えるとするなら、オレの場合、障害児を自らの胎内で育むことが決してない立場である男性、しかも未婚で子のない男性としての感じ方が基本になると思います。その意味で、オレは決してこの問題性の当事者の立場には立てないわけで、たとえば、オレがもし結婚して子供を儲けたとしても、直截子供を妊娠して産み落とすのは母親でしかないわけで、母親の配偶者、そして子供の遺伝的父親としての立場でしか当事者性が発生しません。
では、この可能性としての当事者性の観点から視て、あのような発言に対してどのように感じるのかと謂えば、satomiesさんが仰っているような「障害児の親になるのはイヤだ」という下世話な感じ方の問題になります。satomiesさんが相当この問題について当事者の立場から考え抜かれたことは、たとえば「どんなに低い確率であってもそのたった一人に自分がなる現実の前では意味がない」というご意見に顕れていると思うのですが、オレも自分が父親になるという可能性の想定においてそういうことをグダグダと考えたことがあります。
その「リスク」に対する絶対的対処法というのはたった一つしかなくて、それは「子供をつくらないこと」しかないわけです。現在オレが結婚もしていなければ父親でもないのはそういう理由ではなく、単に機会がないだけですが(笑)、子供をつくるということは、そのようなたった一人になる(正確に言えばその配偶者・父親となる)「リスク」を冒すことであるという認識はあります。
翻って倖田來未の発言に感じる不快感というのは、たとえばsatomiesさんのような立場を一種の「失敗」と見做す下品で乱暴な人生観がそこにあると感じるからです。この辺についてもsatomiesさんはご自身のブログで詳細に語っておられますが、たとえば高齢出産で発生上の「リスク」が高くなるとしても、それは真摯な人の生の営みの現実の問題であって、単純な家族計画や人生設計の問題ではないはずですし、若くして妊娠出産してもその「リスク」から完全にフリーになるわけではない。
そして、自分の当事者的な問題性ではない時点では、「リスク」などという無神経な表現をしてしまうわけですが、その表現が導き出す理屈の延長上には、じゃあ障害児を出産してしまったらそれは「失敗」なのか、障害児との親子関係というのは「失敗との向き合い」というリカバリー的な生き方なのか、という深刻な問題性が続いていると思います。
satomiesさんの発言姿勢を拝見するに、今現在はそんな心境から何とか脱出されていると感じるからこういうことを率直に申しあげるわけですが、「子は親を選べない」とはよく謂われていますが、親だって子を選べるわけではない。人の親だったら誰だって美しくて健康で賢くて優しい子供が欲しいという身勝手な「欲」はあるはずですが、今現在子供を育てておられる真っ当な親御さんなら、どんなに親の勝手な「欲」に釣り合わない子供でも、その子供のありのままの現状を肯定して愛し慈しんで大切に育てておられることと思います。
by 黒猫亭 (2008-02-10 00:45)

たとえば一〇〇〇人の母親がいるとすれば、その内の一人は障害児の母親であるかもしれない。しかし、他の九九九人の母親と比べてその一人の母親は「失敗者」なのか、そうでないとしても「運が悪かった」のか、下世話な世間はついついそんなふうな判断基準でその現実を考えがちなのかもしれませんが、それは当事者性において判断を下すべきことでしかありません。

理想を謂えば、どんな子供であれそれは均しく天からの授かり物であり、自分の愛しい我が子であると思ってほしいと思いますが、それもまた非当事者からの勝手な期待でしかなくて、そう考えることを非当事者の立場から当事者に対して強制することなど出来ません。そのように考える非当事者自身が相変わらず「自分の子供だけは美しく健康で賢くて優しい子供であって欲しい」という、人の親なら誰でも抱くような身勝手な欲を棄てきれていないはずだからです。

自身が障害者ではないことに安堵し、出来うるならば自身の子供もそうであってほしいと願う、ただの非当事者にすぎないからです。そんな願いを一概に否定して好いことではないですし、同時にたまたま障害児の親となったとしても、そんな我が子をそうでない子供と同様に肯定し愛し慈しめる親でありたいとも願っているでしょう。

しかし、自分がそのような親になれるかどうかは、現実にそのような当事者性の立場に立ってみないとわからないことです。そして、冒頭で語ったように、オレ自身の当事者性において考えるなら、男性であるオレには直截子供を産み落とす肉体ではないというただ一つの「逃げ道」がある。この問題性において、オレが恐れていることが一つだけあるとすれば、その立場に立たされたときにオレは、その問題性に直截向き合うことが出来るだろうかという恐れです。

障害児を産み落とした妻を非難したり生まれた子供の現状の生を否定せずに、愛と慈しみを以て逃げずにちゃんと向き合うことが出来るだろうか、それがとにかく怖い。本音を言えば面倒なことや近所隣に体裁の悪いことはオレだってイヤですから、そういう立場に立ちたくはないけれど、人の親になるということはそういう可能性を受け容れるということでしかない。だから、下世話な生活人であるオレは、おっかなびっくり自分の生の現実の恐ろしい可能性にもちゃんと向き合いたいと願うしかないのです。

倖田來未の発言が強烈な不快感として感じられるのは、satomiesさんが仰るように「賢く」生きることでそういう「リスク」から逃げたいという下世話な性根が透けて見えるからで、それは彼女が世間を識らない健康な若い女性であるからといって免責されるような事柄ではないと考えます。たとえ、その発言を当事者性を以て受け止められる立場にあるsatomiesさんが痍附かなかったとしても、生の可能性の恐ろしさの前でおっかなびっくり立ち向かいたいと願っている多くの人々の感情を痍附けたことは事実ではないかと思います。

satomiesさんのエントリーを拝見することで、オレは自身の生の未然の可能性に対して力強い希望を得ることが出来ます。たとえたまたま他の子供と違った子供の親になったとしても、この方のように他の大勢の親と何ら変わりなく自分の子供に接することが出来る親が存在する、それが聖人君子でも何でもない極普通の生活者の一人であるという事実に、かなり救われるものを感じます。

そういう言葉に救われる一方で、そういう可能性がただイヤだから自分や自分の関係者だけはそういう「失敗」を避けたいという醜い性根を見せ附けられると、この娘は人の人生の重みなんか全然わかっていないのに識ったふうな口を利いているんだという不快感を感じます。たしかに若い人間は誰の前にも横たわっている人生の恐ろしい側面なんか考えたくもないでしょうけれど、「若いから」という事情を斟酌してそれを許容するなら、いつまで経っても考えません。そんな未熟な儘の人間にマスコミを通じて不特定多数へ向けた情報発信なんかされるとかなり迷惑です。

satomiesさんは痍附きもしなかったし、若い娘なんだからわからなくても仕方ないとお考えかもしれませんが、オレはこういう粗雑で自己中心的な感じ方を垂れ流す人間が途轍もなくイヤだ。こういう人間が愛だの恋だの脳天気に歌っているという事実が途轍もなく不愉快だ。その同じ口で若い娘たちの間に水伝を布教して廻っているのかと思うともう我慢出来ないくらい不愉快です。自分が年寄りであることのただ一つの特権というのは、若い人の若さ故の過ちに寛容である必要がないことだと考えています。

この人が生きていく為に必要な「フィクション」になど何の興味もないけれど、この人が生きていく為に必要なフィクションがこれほど醜い心性を顕わし、他者を不当に痍附けずに措かないものなら、性根が腐った儘なのはあんたの勝手だから、せめて人前ではきちんと黙っとけとしか感じません。これがオレの立場における問題性の認識ということになるでしょうか。
by 黒猫亭 (2008-02-10 00:46)