表現と云うのは、受け取るものになんらかの痕跡を残すものだと思っています。それはもう比喩の領域を超えて、限りなく「傷つける」に近いニュアンスを持つものです(どう傷つけるのか、については質的にかなり違った種類のものがありますが)。それが社会的にネガティブな質を持つものであれ、「傷つける」ことに成功した表現は、優れた表現である、と思っています。
だから、「どう傷つけたいか」の意図の存在は重要なのです。善意・悪意なんて云う次元で語られるべきものでは、それはなく。
by pooh (2008-02-07 23:44)
表現者/Chromeplated Rat:コメント欄
でも、人を傷つけることはとても辛い。その人の傷みを自分の身に置き換えて想像すると、辛くて、そう言う他人を傷つけた自分に耐えられなくて、文を、自分を、すぐ消したくなる。でも消さない。
ただ、でも、出来るだけ傷つけたくはないので、気をつけたい。でもそう言うことが起こることは覚悟している。常に。また傷つける時は思いっきり、意図を明確にして、解りやすく傷つけたい。非難されるだろう。でも、出来れば、すぐ、傷が治るように。傷が残るように。
自分の書いた文で誰かが傷つくことは辛いけど/うどんこ天気
また、創作をする側にも書きたい欲求があって何かを書く、それについて傷つく人が当然出てくる、でもそれでも書かなきゃいけないんだという強い気持ちがあります。要はお互いの気持ちがどれだけ真正面からぶつかり合えるかということだと思います。読む側が読んだあとのやむにやまれない気持ちを出してきたとすれば、それに対して書き手は耳を傾けると同時に、どうしてもこういうことを書きたかったんだという強い意志を示す必要がある。そしてそのぶつかり合いの中に新しい創作の原石を見出していこうというしたたかさも必要です。
何かを書いた後、そのことについて強い当事者性を持った人に何か言われたときにうろたえてしまうのであれば、それは書き手の「書きたい気持ち書かねばならない意志」が読み手の「言わねばならない意志」よりも弱かったというだけで、次に書くときにはより強い「書きたい気持ち書かねばならない意志」をもって書けばいいのです。
12月17日の先生 - リーバイラオスー
まず間違いなく云えるのは、彼女は表現者としては致命的に言葉を大事にしていない、と云うこと。
生業が音楽に乗せて言葉をうたうことなら、自分の発する言葉が何を伝えるのか、誰を喜ばせまた悲しませるのか、と云うことには鋭敏であるのが当たり前だと思う。メロディやリズムの方が大事だ、と云うことはもちろんあるだろうけど、だからうたう言葉の内容までは考えない、と云うのは表現者としてありえない。それは自分自身の表現を、そしてそれに触れるひとたちをあまりに軽んじている。
表現者 /Chromeplated Rat
「35歳を過ぎると羊水が腐る」発言騒動は、多分騒動にしたかった野次馬的存在の力というものがあり、そこを軽く見た関係者の失態ということになるんだろうけれど。発言者が「表現者」ということで言えば、うっかり言って、ろくなことも言えずおろおろしているというのは残念に思う。逆に言えば、おろおろとろくなことが言えないからこそ、うっかり言う行為というものもあったのではないか、とも。ピンチはチャンス。逆に失敗で得たものを出していけるようなしたたかさがなければ、表現者として最終的に生き残るのは難しいのかもしれない。本人にその強固な精神性が薄いのならば、商品としての扱いとしてのスタッフの力の無さという風にもわたしはとらえるなあとも思う。
まあ今回の騒動は「傷つける発言」と打ち出されている割には、「傷ついた」と説得力のある人物像は浮かび上がってはこないのよね。多分だけれど。なんとなく「傷つく」ととられる層ってのは、もっとシリアスな場面で傷つけられるシーンを経験しているだろうし、そこで得た耐性は、この程度の軽口では傷つかなくなってるようにも思う。あの若い子何言ってるのかしら的オバチャン視線のインタビュー映像はテレビには出てくるが、そのオバチャンだって10代や20代の頃に「若さのもつ傲慢」のひとつやふたつはアンタだって持ってただろ、ともわたしはツッコミたくなるところもないではない。だから結局この騒動は、人気を蹴落としたい層が引き起こした「正当性の面をかぶった」足下すくいってとこはあるんだろうとも思う。
ただ、わたしがこの問題をとらえるときに。単に「正当性の面をかぶった」足下すくいでしたちゃんちゃん、ってことだけではなく、そこで人がこの問題をどう考察していくかということを垣間見られるのが興味深いわけです。
自分の身近なひどく現実的な線として、まあヤダな、と思うことは。ダウン症の子どもがある家庭に生まれたときにたどる線としての話。まず、生まれた赤ん坊がダウン症であるという告知を受けたときの事実の衝撃。そしてその次が、「外」を漠然と怖がること。そのときにこうした「35歳を過ぎると羊水が腐る」的な無責任なジャブのようなものを「それが世間だ」と漠然と思い出してしまうこと。わたしが想定する「傷つく層」は、ここかもしれないなあ、なんてとこをちょっと思った。まあでもその「傷つく層」も、ゆっくりと耐性を身につけていくのだけれどね。それは精神力でなんとかっていうよりも、世の中そんな捨てたもんじゃないという経験の積み重ねなのかもしれないな。