リツエアクベバ

satomies’s diary

失言から拾うもの

 id:fujiponさんの別ブログのエントリをクリップ。漠然と思っていたことが端的に書かれているようで、何度も再読。

みんな、倖田來未に何を期待していたの?/じっぽ当直日誌・スーパーマイルド@JUGEM
「35歳を過ぎると羊水が腐る」というのを聞いて、産婦人科の先生たちも大笑いしていたのだが、彼女はイヤミでそういうことを言っているわけではなく、医療の専門家でもなく、単に無知なだけなので、あんなに叩かれるのもちょっとかわいそうかな、とは思う。そもそも、倖田來未というのは「将来のことは棚上げにして自分が『若い女性』であることを満喫している人々の代弁者」として存在しているわけで、考えようによっては、今回の件で、「世間の若者のあいだではそういう俗説がけっこう信じられているのだ」ということがわかっただけでも意義深いのではないだろうか。でもまあ、これまでは、「なんのかんの言っても『女性に嫌われるライン』は踏み越えていなかった」わけだし、今回の件に関しては、本人も周囲も脇が甘かったとしか言いようがないのだが。

 「自分は絶対に『そちら側』にはならない」という、根拠の無い自信に裏付けされたような発言をする人は巷にはたくさんいると思う。そこで、その「根拠の無い自信」がどこまでつけあがるか、のような線。この線がまあ問題となるボーダーになるところはあると思うのだけれど。
 「絶対に」とまでは言えないようにも思うけれど。いや自分で無自覚なだけで実は「絶対に」というような線をもしかしたら持っていたのかもしれない。わたしは娘を産むまでは「障害をもった子どもを産む」という人の側に自分が入ると思ってなかった。その線でだけ言えばわたしは「そちら側」で、この線だけに限定すれば「そちら側」から見える景色が少しわかるようになった。(この人は、なんだかんだ言っても自分が「そちら側」に入らないという認識があり、だからこういう発言をするのだろうな)という感じ。
 そんなことを考えると、わたし自身、自分が無意識に「わたしは『そちら側』には入らない」という認識を持っている層に対して、やっぱりある種の失言というものを繰り返したりしているんだろうな、とも思う。
 「35歳を過ぎると羊水が腐る」。わたしがこの言葉で漠然と感じたものは、「障害児は産みたくない」ということだなあと思う。羊水が腐って変な子が生まれたら困るでしょ、という線を漠然と感じたから。そしてその線にわたしが傷ついたかと言ったら実はそうでもないわけで。だって何言ったって生まれるときは生まれるもの。
 高齢出産のリスクの中で「染色体異常児を妊娠する確率が上がる」というのはあるが、そこで医学的に言われている確率を大幅に超えて、たとえ何千人に一人何万人に一人という確率を出されたとしても、その「1」に該当した人にはその確率はあまり意味は無い。自分にとっては「1分の1」、もしくは「自分が産んだ子どもの数分の1」でしかないからだ。でも経験していない人にとっては、その確率に意味があるわけで。その確率が低いところにいれば安全で、その確率が低い方を選択することが「賢い」と思うのだろうとも思う。それは「賢い」というよりも、実は自分の人生上のタイミングや運だったりするとも思うのだけれど、そうではないと思う人はけっこういるのだろうなと思う。
 高齢出産のリスクに「染色体異常児を妊娠する確率が上がる」ということがあって、それを「35歳を過ぎると羊水が腐る」というイメージ表現をするのならば。そういうイメージ表現をする人から見れば、わたしの羊水は20代後半にしてすでに腐っていたってことになるんだろう。第二子の妊娠・出産のときに、わたしは妊娠・出産に対して第一子の妊娠・出産の時以上に不安や緊張感を抱えていたのは、母胎としての自信の無さも少しは入っていたようにも思う。さすがに「わたしの羊水は腐っているのか」とまでは思わなかったけれど、漠然とした自分の母胎能力としての卑下はなくはなかったとも思う。でも全部ひっくるめて、これはわたしの人生だ。とも思う。
 「羊水が腐る」という表現を侮蔑ととらえるとき、それは単純に「アンタの○○腐ってる」という侮蔑ということなのか。それとも「羊水が腐る」→「染色体異常児が生まれるぞ〜」→きゃー怖い!。高齢出産をする可能性がある人にこういうことを言うのはひどい、ということになるんだろうか、この線は。
 後者という線だけで言うならば。「染色体異常児を妊娠・出産した人間」という側の、しかもわたし個人限定の感想ですよ、ということで言えば。わたし個人はとりたててなんとも思わなかった。その理由は、上記リンクのエントリタイトルが象徴していると思う。特に楽曲が好きなわけでも声が好きなわけでもキャラが好きなわけでもない若い女性歌手に対して、たいして何の期待もしていなかったからと言えると思う。若さのもつ傲慢もあるだろう。それは自分が若いときに持っていなかったかと問われれば怪しいよね、というのもある。また、そういう表現が俗説として存在してるのか〜、へ〜、とも思った。
 今回の騒動の感想としては、この若い女性歌手の「自分が商品であることに対しての認識の甘さ」だと思う。売れるということは本人自身が与えるイメージ全てが商品として成立しているということで、自分自身が受け入れられているというある種の勘違いが生んだ失敗なんだろうと思う。だから商品戦略の修正等、当然受け入れなければならないものだとも思う。そういう意味で同情はしない。