リツエアクベバ

satomies’s diary

トラックバック受信二件

 この二つのトラックバックを受信した「いじめに対しての感性のようなもの」。ここでタレント名も番組名も出さなかったのは、この文章の主旨というものは、タイトル通り「いじめに対しての感性のようなもの」だったから。あるシチュエーションで誰がどんな風に感じるか、ということは、その人の感覚にもよるし、特にこうした人気番組に関しては、感性の多数決のようなものもできるのだろうと思う。
 わたしが「もうこの番組は見ない」と思ったのは、それしか自分にできる、自分に対して裏切らない、自分としての意志表示の手段が無いと思ったから。何をどう言ったって、あの人気番組にとって屁でもなく、そんなものは見越して作られている番組だろうと思う。生放送で毎日毎日消費されていく時間のたかが一コマのようなもの。
 自分が「もうこの番組は見ない」と決断することに関して、そうした自分に対しての感想は、頑固ババアのようだ、と思った。そんな日もあるさとからから笑っていた方が簡単でラクなのに、何をそんなにこだわるんだ、と自分でも思った。
 頑固ババアは実際、10年以上は確実にこの番組を意志的に避けた。今は変化はしているとも思う。発端になったシーンを強烈に記憶していることに関しては今も変わりはないけれど、番組自体に関しては、わざわざ見るほどではないけれど、見ながら気楽にあははと笑うときもある。そうした変化は、年数を経る中でこのこだわりに関しての思考を続け、確実にある結論を自分の中で出したからだと思う。
 ひとつの場面、というものには、そこに感じるもの、という感性がある。それは人によって違う。その違う、ということを認識することは、「みんなが」ではなく「自分は」というものを守ることができるだろうと思う。わたしは「見ない」とがんとして思うこと、頑固ババアになることで、あの番組が人気番組である、という事実としての「みんなが」に、抵抗したかったのかもしれない。今は「自分は」の守り方が、あの頃よりも力を持ったような気もしているところがある。
 ブラックな笑い、というものは、はっきり言っておもしろいものだと思う。それはヤバいという線、そのボーダーぎりぎりという部分があるおもしろさだとも思う。しかし、このボーダー、境界線、というもの、そのポイントになるような壁は、人によって変わる。ボーダーより前で不快感に落ちる人もいれば、そのボーダーの境界線が時間的なものも含めてずっと先、という人もいると思う。わたしは笑う対象が行為者の「獲物」に見えたら、もうダメな部類だと思う。
 その「自分は」という線を知っていること、「みんなが」に流されない自分をもつこと。これは生きていくという上で、大切なことなんではないかと思う。心理的・精神的攻撃に感じる場面というもの、ここで罪なのは攻撃の主体者。そしてそれと同じくらい罪があると思うのは、知ってて流す「傍観者」であるとわたしは思う。この傍観者の存在によって攻撃者の力も左右されるところがあると思うのがその理由であるともいえると思う。「みんなが」ではなく「自分は」と思うこと、これは自分に対して与える力でもあり、そして周囲に影響を及ぼす力でもあるとも思う。
 人間が構成する社会には、心理的・精神的攻撃の存在なんてものは、腐るほど、実に日常的に存在している。境界線に対しての個人差も含みながら。そこで、その境界線の違いという事実を前提にしながら。
 その、人間が構成する社会で生きていく上で必要なのは、わたしはまず、self-esteemだと思う。自尊という言葉が自惚れや高慢という意に近くなる、という解釈を背負うと、self-esteemという言葉を使うのが安全かもしれない、とも思う。わたしが思うself-esteemの意に近いものをこつこつと集めているのはコチラ
 次に有効なのは、自分自身が暴力をはね返していく力だと思う。これに関しては、わたしはCAPの教育というものを高く評価していると思う。

  • 子どもは「無力で何もできない」のではなく、行動の選択肢とそれを使って自分を守ろうという力があれば、暴力から自分を守ることができます。子どもの内なる力に働きかけ、その力を引き出すのがエンパワメントです。
  • 子どものプログラムでは、最初に大切な3つの権利「Safe(安心)、Strong(自信)、Free(自由)」について学びます。この3つの権利は生きるために絶対に必要なものと説明します。子どもたちは誰でも安心して自信を持って自由に生きる権利があります。そして、暴力とはこの3つの権利を侵す行為です。
  • 人権を守る基本的対処の仕方が「No(イヤという)」「Go(その場を離れる)」「Tell(誰かに話す)」です。これを具体的にロールプレイ(寸劇)を使って学んでいきます。

CAPセンター・JAPAN 「CAPの3つの理念」より)

 これは主語が子どもで語られてはいるが、子どもに限定することではないとも思う。実際CAPの保護者向けプログラムでは、暴力というもののセミナーで語られることは子どもに限定はしていない。人間が生きていく上で「安心、自信、自由」が守られなければならないということに気づく力の根底にはself-esteemが必要であり、CAPで使われる「Go(その場を離れる)」は逃げるということでもある。逃げることは後退でも逃避でもなく必要なときが確実に存在すること。実際CAPでも「逃げる」という言葉を使う。「逃げる」という言葉のニュアンスに左右されずに自分を守る行動が取れるためには、やはり必要なのはself-esteemだと思う。