リツエアクベバ

satomies’s diary

「暗くなるまで待って」と視覚障害

 「暗くなるまで待って」を再見していてふと思った。この映画が公開時、視覚障害の人やその周囲の人はどう思っていたんだろう。
 ヒロインは全盲。これは先天障害ではなく事故による中途障害。その中途障害から視覚障害を負い、がんばって日常を訓練している様子がたくさん出てくる。「盲学校で一番の成績だった」「盲人のチャンピオン」なる言葉も出てくる。中途障害にしてはできすぎのような気もするんだけれど、こればかりはわたしは当事者ではないのでわからない。
 夫はいろいろなことを妻にやらせようとする。簡単には手伝わない。落とした物の位置を「わからないようだったらヒントをやる」と言って、最初から教えない。
 「あなたはわたしに盲人のチャンピオンを望むのか」「わたしはわたしのままではダメなのか」とヒロインは夫に迫る。君のままでいいのだと答える夫に「Do you? Do you?」と繰り返すオードリーの口調とトーンがめちゃめちゃかわいい。
 視覚障害をもつこと、不便を解決していく力をもつことに対しての努力。その中で、視覚障害をもつことが自分の精神性にマイナスの要素を与えていくつらさを訴えるシーンもある。
 騙されて味方だと思っていた男が実は敵の一味だと知るヒロイン。その上での行動とその意志の強靱さに、味方だと思わせて騙そうとした男は、彼女の強さを認めて黙って引き下がろうとする。そのときに「わたしは盲人のチャンピオン?」と尋ねるヒロイン。
 視覚障害をもつヒロインが「見えること」を、観客が観ていくシーンがたくさんある。視覚障害をもつヒロインが見えること。このことに観客の視点がいきながら、そしてストーリーが進みながら、場が真っ暗になるシーンがある。
 はい暗くなりました、でも観ている人には見えてますシーンではなく、画面は本当の真っ暗。そこには登場人物のセリフという「音」しか存在しない。日本初公開時にはこのシーンで非常灯さえも消し、途中入場禁止、つまり場を完全に真っ暗にするということをしたそうで。真っ暗な状態の中、観客もヒロイン有利を体感する。
 視覚障害をもつことで騙されていくんだけれど、それでも騙されない力を展開していく。障害をもちながらがんばってるんだけど、それでもよくある「障害があってもがんばりました」的には感じないのだけれど、視覚障害当事者の人はこの映画の存在をどう感じていたんだろう。
 わたしはこの映画を「障害があってもがんばりました」的には感じないところは、がんばってるポイントが「夫の名誉を守るため」だったことかもしれない。その「夫のために」が理解しやすいような夫婦関係が冒頭でよくわかる展開になっていること。引き下がろうとして殺されちまった男は、その「夫の名誉を守ろうとする意志力」に感服したのだと思う。
 「障害があってもがんばる」のではなく、人が自分の大事な人間のために自分の持てる力でがんばる、ってことが、中心の線になっているよなあと思う。まあでも、人の「がんばる」基本の動機は、このあたりが源になっていることが多いもので。だからこそそう感じたのかもしれないなあとも思った。
 それと。世間的に認められない女の子がヒロインと結託して、見事にヒロインを助けていくのだけれど。冒頭で仲があまりよくなかったこの女の子とヒロイン。ヒロインがこの女の子を信頼して支援を託していくことで動いていく心の流れも、わたしがこの映画が好きなところかもしれない。