リツエアクベバ

satomies’s diary

「マディソン郡の橋」でもういっちょ

 Youtubeで「The Bridges of Madison County」と入れて検索。ははは、出るわ出るわたくさん出る。BGM入りがわんさと出てくる。名シーンの切り張りは、まるで他者が作った「思い出のアルバム」のよう。この思い出を胸にフランチェスカは4日間後の人生を送ったのだと言っているみたいに。
 でもさあ。「マディソン郡の橋」で、観た人に名前すら覚えられないだろう亭主、ってのもいいんだけどなあ、と思う。出かけるときのシーンもいいし、ロバートとフランチェスカが最後の別れをした後に、自分のニョーボがじゃんじゃん目の前で泣く。理由のわからんその号泣、それを何も聞かずにそっとしておくんだよね。
 死ぬちょっと前のシーンもいい。オマエの人生は望んだものではなかったのではないか、でも自分は愛している、と。フランチェスカは4日間でそりゃその先を家族のために我慢したかもしれないけど、時々遠くを見て何かを思うニョーボを見てきたんだろうなあ、とも思う。
 なんでこの辺、ぜ〜んぜんスポットが当たらないんだろ。この亭主、すごいいいのに。まあ留守中に自分のベッド使われた寝取られ亭主ですから、スポットあてちゃマズいのかもしれないが。
 昨日リンクしたコレ。

小説マディソン郡の橋 から

 ここではマディソン郡の橋にうっとり主婦に警鐘を慣らしまくるかのような加藤諦三氏の著書があげられているのだけれど。ここで紹介される「ロバートも神経症的と。あとがきではフランチェスカ神経症と断じておられます。小説の主人公を病気であると診断しても仕方のないことですが、真剣に論証しておられます。」ということ。これで思い出すのは曾野綾子の「神の汚れた手」。
 この「神の汚れた手」という書籍の概要は以下がわかりやすいんですが。

『神の汚れた手』/ 八方美人な書評ページ

 この小説の主人公である産婦人科医の妻。という存在がありまして。この女性が、亭主の言葉を借りれば「お子さまランチのような恋愛遊戯を繰り返す」。占いで行く方角を決め、そしてそこでなんらかの男性に恋心をすぐに抱く、と。相手にしてみれば都合のいい相手であるわけで、それなりになんらかのコトが起きてしまう、と。
 この産婦人科医は妻に対して、すでにどこかあきらめの境地に至っていて、妹のように思っている。この恋愛遊戯で先方の家庭に妻が乗り込んでしまって困っている、と先方の奥方から連絡があったときに、「他人様の家庭に害を及ぼすことになってしまったから」という理由で「ちょっと休んでおいで」と、保護の感覚で精神科に連れていったりするわけです。
 「マディソン郡の橋」を苦々しく思う男性の層には、ここまでとは言わずとも、こうした要素がある妻をもつ亭主族の存在があるのではないか、などと思うわけです。そして(神経症という判断か…)という意味で、ここで紹介されている加藤諦三氏の書籍にわたしはかなり関心をもっていたりする。だけどそのためには「マディソン郡の橋」も小説で読まなきゃならんのか…と思ったり。自分としてはコレ映画でいいんだけど。
 この「神の汚れた手」の主人公である産婦人科医。この小説の重要な登場人物である、産婦人科医の姉の友達、という人が出てきまして。この二人は常にいろんな話をする。相互に理解しあっていて、そして踏み込まない。ここでこの医師がこの女性を「愛している」という言葉が使えるんではないか、とも思うわけです。この「愛している」というのはラブラブロマンス単純ワードではない。
 「マディソン郡の橋」という映画は、恋愛映画の魅力的シーン炸裂映画ではありますが、わたしにとってはやはり崇高だの孤独だの相互の個性の見出し合いだのってことは、ちょっと首をかしげるとこはあったと思う。そういう意味で相互に「かけがえのない存在」とするにはちょっと時間も対話も少なすぎ、と思わなくもない。4日間という限定期間ですから、肉体関係への展開に猛スピードだよなあと思わなくもない。最初っから「4日間」はわかってるわけだから、見てる方も展開に拍車をかけたくもなる。「マディソン郡の橋」でそこまでお互いを、というのであれば、もっと時間をかけた様々な多種の会話は要るんではないかと思うし、錯覚という恋のパーツは充分作用しまくっているのではないか、とも思う。
 映画としては名シーンの数々に拍手だし、この程度の暴走で肉体関係に突っ走ってもらわなきゃ観客は盛り上がらない。わたし自身もそんな観客です。あい、実に勝手なモンです。けど、ストーリー的にはまあずるいわな、と。その辺はある。相手のカメラマンが根無し草で、なんだかんだその先の人生送りながらわたしを思っていてくれるの、というのは、女性のラブロマンス思想として相手の存在が都合良すぎ。ファンタジー、かな、とも思う。
 で、映画としてはよいのよコレで。だってファンタジーだも〜ん。
 でもラブロマンスとしては、やっぱやっぱや〜っぱ「恋におちて」に軍配だよなあと思うわたしは。双方に家庭、でも双方の家庭ともダメになってしまう。新しいカップルがくっつくためにダメにするんではなく、新しいカップルが恋をしたためにダメになっちゃう。新しいカップルの方もダメになっちゃう。え〜〜〜〜、と思う観客に、再びこの男女が出会うことを予測させるシーンで終わるんだよね、確か。むちゃくちゃ現実を提供しておいて、最後にファンタジーを出してくる。
 おほほ、再見したくなった。TSUTAYA行って借りてこよ。ちなみに「恋におちて」は結婚前、映画館で観ました。夫とデートでした。「マディソン郡の橋」は、夫がまだ寝てる朝、一人で観てました。彼が起きてきたときに、「『マディソン郡の橋』を観てるの」というのが、なんかやたらに恥ずかしかったです。