リツエアクベバ

satomies’s diary

「ちづる」って、どんな映画?

映画「ちづる」公式サイト

↑の公式サイトに書かれていない説明をしてみよう!

*出演女優が魅力的な映画

ドキュメンタリー映画なので「女優?」というのはあるが。ここは映画ということであえて「女優」で。「ちづる」は出演女優が魅力的な映画です。ちづるさんの伸びやかな手足の動きは実に美しい。その時々でのちづるさんの表情はとても魅力的です。予告編は彼女のかわいらしさを映像でしっかりピックアップしてる、宣伝写真の笑顔はすばらしい、彼女は非常に魅力的です。
おかあさまもまた、美しい。特にご長男とリビングのテーブルで会話をしているシーンでのおかあさまは、いわゆるステレオタイプな「障害児者を扱ったドキュメンタリー映画の母親」というイメージの映像ではないですね。そういう「なんか苦労を背負ったようなかーちゃん」というより「あたしの思い」を話す女性の映像です。

*コミュニケーションをストレートにキャッチさせられる

母と息子と娘。カメラの被写体はこの3人が中心になる。この3人以外の人物がカメラに入る時間はこの映画では本当に少ない。
監督である「息子」がカメラを回す。そのカメラに向かって「母」が話す。「母」はもちろんカメラが動いていることはわかっている。でも。「母」が話す時になんとなく感じるのは、「『息子』とまっすぐに対話できる機会を今、得ているのだ」と「母」が思っているのだろうな、ということ。「娘」の障害のこと、自分が思っていること。そういうことを二十歳を超えた「息子」とまっすぐ話す機会というのは、なかなかそう簡単にもてる機会ではないだろうと思う。だから、いろんな思いをもちながら、「母」はまっすぐ投げてくるんですよね、コミュニケートというものを。
で、「母」は「息子」に投げているんだけれども。この「息子」の「目」に観客は付き合ってるんですよね。観客は同時進行で自分にもこのコミュニケートが投げかけられる。これが、コミュニケートの「共犯体験」のようなところで、その話題がこの家族にとってナーバスな要素をもつものであるなら、余計にこっちはドキドキするわけです。
ちづるさんがカメラに向かって兄を呼ぶシーンがあるのですが。彼女が堂々とこっち見て(実際はカメラを回す兄)呼んでくるもんだから、自分が呼ばれているわけではないのに呼ばれるようなコミュニケートを体感させられる。ドキッとしますわな。

*フィクションではない緊張感

ちづるさんのいろいろな面が映画には出てきますが。いわゆる彼女の障害特性としてのシーンは、フィクションで「これこれこういうこんな感じのシーン」と想定されて用意されるシーンよりワンクションかツークッションくらい長いです。つまりフィクションであったらストーリー上(ああそういうことなのか)とそうわかるようなタイミング的長さがあるような感じで、なんとなくこっちはそのタイミングの長さのようなものが体内時計に入っているような感じがあり。しかしその時計の「ここまで」より長い。
この長さがこの映画がドキュメンタリーであることを改めて教えてくれる。自分に向かっていろいろ話しかけられて(本当はカメラを回している監督になのだけれど)、そしてフィクションより長いシーンに巻き込まれる。生活を体感する感覚に引きずり込まれるんですね、そこで。障害児者の生活の話の中で「あの人はできる」「わたしにはできない」とかなんとかという距離感が発生することはよくあるものだとは思うのですが、この79分の世界の中ではそういう「わたしには」という半身引いたような見方の位置にいきにくい。そしてその映像の中の世界に対して「自分も存在している」ような感覚になるんです。

*「家族」が生きているそばにいる

この映画は、生活の中で映像を記録していく間に、映像での記録を機会として「家族」のコミュニケートがどんどん動いていくんです。その現在進行形を映像として観た時に、観た人間も79分の世界の中でその生活を体感する。そこで呼吸しているような感じ。
そしてそのそばで見ている自分がそこでの呼吸に馴染み出した時に、映画の終わりがくるんですよね。多分、この映画を見た人の多くが、この家族のその先を見たくなっているんじゃないかな。なんとなく離れられない、「家族を進行形で体感」の後遺症がこころよく続く映画です。