リツエアクベバ

satomies’s diary

自己肯定

失敗する子ども/fuuuuuuunの日記
「失敗する子どもをどうして肯定しなければならないのでしょうか」

 うまく言えないのだけれど。
 失敗して叱られること、注意されること、こういったことはその人間の行動の一部の否定であって。そして肯定されるべきものはその人間の存在自体の肯定なんではないかと。一部の否定は全否定としてとらえてしまうムードを生み出す。その回避の必要性。
 叱責されることとバランスが取れるようにほめることをほめるのではなく、それでもわたしにとってあなたは大事な人間なのだと。そういう瞬間を渡されることのように思う。言葉だけで伝えるのならば、それでも大好き、ってことなのかな。
 どうして肯定するか。それは生きる力を手渡すため。生きてれば転ぶ。転んだときに起き上がる力。この作業を自分の中でやっていくこと、それが自己肯定の作業なのかも。
 以前仕事で接した人で、すごいなと思った人。上司に挨拶をして外に出ていく人間というシチュエーションで。この上司は部下の弱点をきちっと指摘する。それはドキッとするような緊張感を相手に持たせる。そして端的にその弱点が生み出すリスクを説明し、その後その人間の現在を気遣う言葉を投げる。短時間に起承転結がはっきりしていて、しかも自分を気遣ってもらってるんだという印象が最後に残る。一行ずつのようなドラマの世界。すごいなあと思った。