fuuuuuuunさんとこから始まった「約束」関連の話題。ngmkzさんbimbomさんsteel-blueさんと、トラックバック送受信の輪が広がる。それぞれの視点で脳味噌の分け合いというようなおもしろさ。
娘が小さいときに思ったこと。普通の子って大変だな、と。娘に関しては言語での意思確認が難しかったので、とにかく本人の意思をどう読み取るかということは要求されるわけで。そのときに思った、普通の子って大変だな、と。
育てることが大変だな、ってことではなく。たとえば「これをしてね」とか「これをしちゃいけない」とか親が子どもに指示だのなんだのということを出したとする。そこで子どもが「うん」とか「はい」とか答えるとする。ここに実は相互の意識のズレがあるんだろうな、と。
親は。「うん」とか「はい」とかを、その指示だとか申し入れだとかなんとかかんとかを、この「うん」だの「はい」だので「聞いた」と解釈する。「聞いた」「聞き入れた」と。でも実は。それは「あなたのおっしゃる言葉の意味は理解しました。しかしその申し入れに対してわたしは承伏しかねます。(または)確実にそれを遂行するには自信がありません。」ってこと、それを思っていても、かすかに思っていたとしても、それを表現するにはボキャブラリーが不足していたり、またそこまで自分の今を説明する表現力が乏しかったりするんではなかろうか、と。でも親は「聞いたイコール聞き入れた」→「約束した」と完結しているのではないだろうか、と。
言語でのコミュニケートが難しい知的障害がある場合は、うなずきだのうんだのなんてことで、それが聞き入れられたとは思ってないわけで。絶対言ってない言えない何かがあるんではないだろうか、という視点はずっと続く。わかってやれなくてゴメンなんてことも思いながら。
それが、言語でのコミュニケートが成立している場合は、その言語でのコミュニケートの表層で安心してしまうことがあるんじゃなかろか。でも。障害があろうがなかろうが、本当に言いたいことというのは誰しもそう簡単には言えないんじゃないかとも思う。でも「わかってやれなくてゴメン」に到達するには、その言語能力がちょっと仇になっていくとこがあるのかもしれないな、と。ってことで「ああ普通の子ってのも大変なんだな」と思った。育てるのが大変ってことではなく、アンタも人生やってくの大変なのね、という感じ。
そしてそれが定型脳かどうかということで、またコミュニケート上の「成立していると思ったけれど成立してなかった」ことというものがあるのだな、ということを今回思った。また、「約束する」ということで切り抜けようとして発生してしまう失敗とか。それとsteel-blueさんの文章にみえる「約束に対しての律儀さ」とか。
「約束」ということでいえば。fuuuuuuunさんとこのこの一文が心に残る。
服巻先生がそこに居続け、彼がそこに現れることで、約束は守られる。今以上自信を失う必要はない。
(NHK プロフェッショナル 仕事の流儀/fuuuuuuunの日記)
つまり。「あなたがそこにいてわたしがここにいる」ということ自体が大きな約束なんじゃないかと。そこが守られていくことがまず約束なんじゃないかと思った。
で。ついでといえばついでなんだけど。娘に関しては「言えない気持ち」というものを、彼女の知的能力としての問題としてもはらんで、常に視線を送っているとこはあるわけで。これが基本線となって息子にも接してきてしまったなあと。つまり本人が苦労しなくても常に先回りして「わかってくれよう」とする親がいるわけで。もちろんホントにわかるかどうかなんてことは大前提なんだけど。それでもちゃんと全部言わなくても表情の読み取りなんてことをされるわけで。これがどうも甘やかしたような感覚が今あって、なんとも困った感じがあるのが現状。もっと苦心してなんとか自分の意志を出していこうとする経験や挫折だっているよな、世の中そんな甘くないもんなと。時々「鈍感な親になる」宣言なんぞ、くり返す最近。