リツエアクベバ

satomies’s diary

障害をもつ子を産むということ

 いや、ちょっと検索の旅に出ていて見つけたところの紹介が主旨。リンク記事アップにgooの方を選択したのは、検索エンジンにのりやすいサービスの方を選択したのが動機。だってこのリンクした文章、存在価値高い。この文章に巡り会う必要のある人にはいろいろな道筋で是非たどりついて欲しい。
 リンクしたとこは初めてのお子さんに染色体異常と合併症があり、その命を送ったという経験がある方のとこ。お子さんの日々の記載に関しては、胸が痛く、無意識に手で口を押さえる。悲しみが飛び出してきそうになることに対しての、たぶん無意識の自己防衛。病棟、治療、小さな体につながれる管。理解できすぎる情景。この方のお子さんは逝ってしまわれた。でもわたしもその経験をすることにおいて、とても近いところにいたのだ、ということを改めて思い出す。
 15年前の娘の闘病の日々、ああわたしはつらかったのだ、と思う。後からの方がそれがよくわかる。当時はつらさを認識してる余裕が無かったようにも思う。前を向く、何をしたらいいか考える。日々を重ねる。泣き叫ばない余裕の無さ、というものもあるんじゃないかとも思った。
 こうした日々をどう過ごすか、なんてことは、障害をもつ子を産むまでの、それまで生きてきたキャラというものが大きく影響するんではないかとも思う。実際いろんな人がいると思う。当事者として先に経験していることから担う、同様の立場の人に対しての支援を経験してきた限り、やっぱりいろいろな人がいると思う。その全ての個性は尊重されるべきだと思う。
 そんな中で「自分の静けさのようなものを、また別のところから静かに観察しているような自分を感じる」と言った「泣かない母」がいた。なんかこう、思わず握手したくなったような思い出。