gooブログはGoogleにあがりやすいらしい。ってことで、日々、検索エンジンからのヒットが多い。ここで非常に参考になる、というのが、その検索エンジンのアドレス。自分があげたものが引っかかる検索。要するに、自分の興味をひく検索であることが多いということ。
更新をあまりしていない現在なのでgooのアクセス解析を毎日見ることはなく、でも覗くときは、この検索エンジンのアドレス、というのが一番興味の対象になる。
数日分ざざざーっと見てまわり、関心を持つものをはてなブックマークに保存する。
ニューヨーク・パパ<第5回>自尊心
便利な時代だ。問題意識さえあれば、検索エンジンがどんどん深いところに誘導してくれる。早速検索エンジンに入れて知恵を授かってみよう。
「高い自尊心とは、人が自分の境界を知り認めていくこと。自分が完全でもない万能でもないことを認め自分から逃げないで、快い自己イメージを持ち、そのイメージに『いとおし』感情を自分がもっていること。」
「ごまかすことなく人生の無意味さに直面できる能力がない私たちにとって自尊心(精神防御システム)は、健康的に生活するのには必要である。」
「自尊心を持つことは、相手を低く見下げることや見栄をはるという他人を意識しての態度とは違う。『私はやれば出来る。必ず成功することができる。なぜなら私は幸せになる価値のある人間だから』という自分自身への信頼と、自信を持っているということ。」
「木々の成長には根が必要なように、心の成長には自尊心が大切な役割を果たす。」
などとでてくる。
検索エンジンから「授かった知恵」として列挙されている言葉の数々に魅力。他者比較が原点となる「優越感」との比較なんぞもおもしろい。
障害児の就学先の選択というのは、一筋縄では語れず、どこに入れるから親がどうだとか、差別だとか、一刀両断で言えることではないと思う。それは地域事情や家庭環境、親や子どもの個性というものが大きく左右していくものだから。大事なことはネガティブなことも含めて現在を認識し、メリットデメリット問題性なんぞを認識していよういこうとすることなのだと思う。それは学校ということだけではなく、障害児を育てる、障害児を大人にしていく、ということに必要な視点を養っていくことにもつながるようにも思う。
親自身が揺れながら体験した就学先の選択や変更、子どもの様子など、非常に詳しい記述は誰かの参考になっていくのだろうなと思いながら保存。べた打ち長文一字下げ無しなど、かなり読みにくかったのが、残念といえば残念。
憲文録−別冊: 逸失利益と平等
ダウン症の子どもが交通事故でなくなったとき、民事の損害賠償で認められるべき「逸失利益」はいくらか。
法の上の平等と知的障害。命が失われたときに、悲しみの値段に差は無いだろう。でもこういう形で失われたとき、命の値踏みというものが始まる悲しみ。
自分が同じ立場になったとき、何をあきらめ、何を戦うのだろうかと、しばし考える。
2ちゃんねるですね、3年間存続しているスレッドか、などと思う。スレッドを立てた人の「匿名掲示板だからこそ聞きたい」ということは生かされているのではないかと思う。読み飛ばすくだらん発言が少なく、全体が濃すぎてどこで意識が止まっていいものやらなんやらと。とにかく人生がたくさん詰まってる。一度ではとても読みきれない。
下から読み、上から読み、まだ読破できていない。7割がたくらいかな。時間をおいて再度開き、記憶に残った部分をページ内検索で引っ張って再読。
引っ張ったのは「どうせ」と「不倫」。「どうせ」は48。きょうだい児の「どうせ」という心理に配偶者が困惑する内容。この「どうせ」に追い込んでいる源はなんだろう、と考える。愛情を素直に信頼できないでいるきょうだい児、という視点もあるなあとも思う。
「不倫」は462。自閉症者に対してのボランティアからその姉と知り合い、結婚し、彼女の不倫により離婚したというもの。印象に残ったのは、「彼女の弟とはいい思い出ばかり」という下り。夫の人間関係と不倫をするというのは、二重構造の裏切りであるだろうし、ガキじゃないんだからその自覚もあっただろうと思う。一線を越える行動の心理はなんであったのだろうか、などと考える。愛される負い目、なんてのがあったのかなかったのか、とか。
きょうだい児の心理には、そのきょうだいの障害特性が関わってくるように思うが、恋愛・結婚となってくると男女差などというものも出てくるように思った。
読んでいて気になるのは「親」の登場。まあ待て、とか言いたくなる感覚。なんだかんだ言って口をふさいでいく存在なんだからさ、「親」は。