漢字変換ってのはビミョーですな。「あさり」と入れたいのに「アサリ」と出て。そして自分のあてはめたいのは「漁り」なんだけど、こんな字日常的にはピンとこないよね。で、無変換でひらがなのまま「あさり」。
2007年を振り返り。ああ昨日入れたのよりもっと前にこんなのがあった。
はい、障害児のきょうだい児話題ですね。ブログ内検索で「きょうだい」と入れればぼこぼこぼこぼこ出てくると思うんですが。まあ言いたいこと言いまくってるエントリのうちのひとつではないかと。
ネット上には親が発言する場は膨大にある。その中に比較にはならない少なさで、きょうだい児の場というものがある。「半年ROMれ」でしたっけ。この言い方、ネット上できょうだい児の方の発言に対しての場での親の発言に、たまに感じる。まあ待て、まあ聞けよ、と。きょうだい児の思いってのは、親を否定すると早急にとらえるのは損だ、短気を起こしちゃいけない。全てのヒントがそこにはある、と、わたしは思う。
まあこのあたりはず〜〜っと変わらないですね。「親」の場に「きょうだい」が出てきたり、「きょうだい」の場に「親」が出てきたりするんだけど。「親」と「きょうだい」がひとつの場で出会うと、「親」が「きょうだい」の口をふさぐような言動をするってのを目にすることは多いですな。たいして意識せずに言っちゃうことが「口ふさぎ」のベクトルを作っちゃう。「親」は意識していない。ところが「きょうだい」はたいがいこのベクトルに敏感に反応しますね。(ああどうせわからない)とぴたっと口を閉じ、そして「いい子な対応」をしてみせる。そんなことを目にすることは多いと思う。
まあ聞けよ、と思う。とにかく聞けよ、と。このエントリ中にちょこっと書いてあるけど、わたしは「とにかく聞く」中でこっちがなんも言わんのに、ちょこちょこちょこちょこ傷つけるような毒を仕込んだ言い方をされたよ。それでもそんな毒にかまっちゃいられないほど、その毒の中身が重要だった。
人間には差別的感覚はある。誰にだってあると思う。「ある」からこそ考えるんだと思う。でも。きょうだい児ってのは最初っから「ある」ことは親に認めてもらえないんじゃないか、と思う。普通の環境だったらあったりそこに何か考えたりそこ越えたり。そういうのを成長として待ってもらえないか?親に。そこ、普通にちゃんとやってやろうよ、とか思う。きょうだい児が差別的感覚を持った途端に「アタシとこの子の敵かい?アンタは」的視線もったらマズいよと思う。そんな視線をもってる自覚なんか無くたって、子どもには敏感にわかるよね、裸の王様。