リツエアクベバ

satomies’s diary

人んちの過去記事

 日記中心のサイトの過去文を「過去記事」と呼ぶのだろうか。「記事」と呼ぶのはブログ特定なんだろうか。
 なんてことはさておき、人んちの過去記事。リクエストしてアップしてもらった。
3月27日 愛する彼女は腕の中にいるか?(再)/OUTER HEAVEN
 これって、おもしろいのは自分たちだけなんだろうか、なんてことを思う。それと、今これを閲覧状態に引っ張り出したなら、閲覧する人によってはわたしが出していった言葉や表現の「断定部」に対して、(あに言ってんだ、コイツ)なんてことを思われるんだろうか、なんて思ったり。
 いや、これはおもしろかったよ。条件の統制の中、何を思うか、「何を偉そうに語るか」ゴッコのような感じで。出した彼の真意はともかく、わたしにとっては言葉を駆使して語ってみる「遊び」だった。とてもワクワクした。
 この「何を偉そうに語るかゴッコ」に関しての些細な表現に、なんだかんだ言われそうな気分がちょこっとするのが、わたしにとっての 「インターネット人類補完計画」の果てに/琥珀色の戯言 に関しての、ささやか〜な感想だった。小さな「庭」での遊び。その母数が増えていくことで公開された小さな「庭」は「公開」という事実の元に小さな「庭」とは認められず、遊びが遊びにならなくなっていく要素も生んでいくのではないかと。そしてそれは避けられないことかもしれないし、そこで「遊び」を持とうとするならば、避けられない可能性に対しての意識も要るんだろうなと思ったり。
 ネット上の対話で、実年齢は関係するか、という話題もあった。わたしとこの男の子との年齢差は20年。こんな対話ゴッコをするのに、この年齢差は少しも支障にならない、と、わたしは思う。ただ、そこには年齢による経験差というものは出現すると思う。この経験差というものが左右してくる話題に関しては、それを無いものにすることは不自然だと思う。その、不自然だ、ということに関して共通認識があったなら、関係性に問題は出ないんだろうと思う。
 この文章の最後に、BUMPのembraceの歌詞の一節が出てくる。わたしのBUMP好きは、もともとこの男の子から「教えられた」ものであり、こうした歌詞の一節をぽんと出すだけでわたしたちにはある種の「共通理解」が生まれる。これには年齢差なんぞは少しも関係しない。
 ただし、この「過去記事」が書かれたときには、わたしはこの男の子に対して「本当には恋愛を知ってはいない」と位置づけていたし、本人もこの「過去記事」の少し後だったかに「自分は人を本当に好きになることを知らない」なんてことを言っていたと思う。その後、彼は恋をして、この「過去記事」のちょうど3年後くらいに「アンタは恋を知ってやっと『淋しい』という言葉の意味がわかったんだよね」なんて会話をしてる。だからこの時期にBUMPのembraceの歌詞の一節を彼が出したとしても、それは「共通理解」が生まれるものではなかったかもしれない。そしてそれをわたしは黙って(そのうちにこれは共通理解になるときがくるだろう)なんてことを思ったのかもしれない。