リツエアクベバ

satomies’s diary

4月30日

看護師さんに手紙書こうと思って。手書きで書くけど、下書きしなきゃなと。で、いっかと思ってここで下書き。

手紙

退院から一週間が過ぎました。夫も退院し、家族がゆっくりと日常を取り戻しています。
これもみなさんの、日々のお仕事のおかげです。本当に感謝しています。

「わたしはこの感謝の思いを一生忘れない」と、タカダさんに言いましたら、「ここ出たら三日で忘れる」とおっしゃいました。そのくらいしあわせでいろよ、と解釈しましたが。なめんなよ、です。わたしの感謝は限りなく濃く、しつこいです。

本当は、お一人お一人のお名前を全部メモっておきたかったです。看護師さんという一括りでなく、わたしはお一人お一人に思い出と感謝を持っています。

娘が時々「かんごしさん」と言ってにこにこします。「優しかったね」と言うと「うん」と元気に答えます。
「コロナウィルス!」というと、うつ伏せに寝てドヤ顔をします。
オオシマ看護師さんだったか、娘を「ちっち」と呼んでいて。娘はいたくこの「ちっち」が気に入ったようで、「ちっち」呼びを要求します。

退院後の体調ですが。金曜日はちょっと動くだけできつかったので、ほぼ座って過ごしました。家事をしてくれる息子が、わたしが入院してからのことを話し続け。それをずっと聞くくらいでその日は終わりました。食事の準備や後片付け、お風呂の準備など、息子が全部やってくれるのをただ見ていました。酸素濃度はすぐ93や92になるので、深呼吸を繰り返していました。

深呼吸をずっと繰り返すより、こっちの方が合理的じゃない?と、ストローを短く切ったのずっとくわえていたりしました。スースースースー、積極的に呼吸する。このストロー作戦は絶大な効果がありましたが、ストローがヘナヘナになる頃には、そんなものがなくても日常的に96以上が出るようになっていました。

また、体がとても冷たい感じがしました。寒いのではなく寒気でもなく、ただ冷たい感じがしました。お風呂に入るとそれがとてもよくわかります。

この冷たさは数日後には消えました。夫も帰宅後、「体の冷たさ」をやはり特に入浴時に言っていました。ゆっくりよくなるから、と先輩ぶってみました。入院中に動いていなかったことが関係するのか、わたしたちにはよくわかりません。

立って歩くときの「変な体感」は、少しずつ薄れているように思いはしますが、まだなくなってはいません。「新幹線の中を歩く感じ」「新幹線のトイレ待つときの感じ」と言うと、夫が「それそれ」「わかるわかる」と言いました。

娘が時々「しんどい」と言います。元気でよく食べなので、どこがどんなふうにしんどいのかなあと思って。もしかしてと思って聞きかたを変えてみました。

頭痛い? あたまいたくない
気持ちわるい? きもちわるくない
歩ける? あるけない

ああ、要するに。この立って歩く時の変な体感のことかなと思います。ゆっくり回復させていこうと思っています。

わたしは、家の近くのポストやゴミ捨てあたりの移動で、なんだか心臓がバクバクしました。息子が全部やってくれると言いましたが、いやちょっとやってみたいと。それで水曜日にやってみました。
戻ってきてすぐにパルスオキシメーターで計測。酸素は97、心拍数が100あたりにいくかな、くらいです。なので少し自信をつけて、年寄りのウォーキングのような歩き方で少しずつ動く範囲を広げています。

まずスープや味噌汁から、と言う感じで調理を始めました。いちいち子どもたちが感激してくれるので、とても楽しいです。パスタや蕎麦など少し簡単なものから始め、そろそろまともにおかあさんのご飯が復活します。
無理しないよう、適度にやっていこうと思います。

変異株についてですが。保健所に問い合わせたら、三人とも変異株だと言われました。ただ変異株の感染者が急増しているので、変異株としての対応はなく、また型の解析などの情報までは入らないとのことでした。

どこでどのタイミングで家を出るか。ずっとそろそろ一人暮らしを、と言っていた26歳の息子は、去年の春からコロナになんだか出鼻をくじかれていました。
今回、一人残された家で暮らし、家族の帰宅を迎え入れ。そうした大仕事を終え、「物件を探す」と言う作業を開始しました。なんだかそれを、清々しい気分で眺めています。今回のことで、なんだかとても成長した息子が家を出るというのは何か卒業式のような感じがします。

今日30日、わたしは誕生日を迎えました。生きててうれしい、帰れてうれしい、世界が本当に美しい。
みなさんの日々のお仕事は、直接わたしの、また看護を受ける人々のしあわせにストレートにつながっています。
病院の方向に両手をふって、盛大に感謝を伝えたいです。

ありがとうございました。わたしはとてもしあわせです。
病棟での日々に出会ったお一人お一人を、わたしは一生忘れません。
ありがとうございました。

(うーむ、なげーわ。便箋何枚になるんだろうか、迷惑な感謝爆弾だ)

たんたんたんたんたんじょうび

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ロウソク6本。つまり還暦!
ああ。還暦を迎えられずに死ぬのかと思ったあの夜のわたしに「ケーキ美味いよ!」と言ってやりたい。

今夜のご馳走は、「おかあさんのカレーの復活」でした。玉ねぎとキャベツを山ほどと乱切りニンジンを水少なめにした圧力鍋に入れて、ぎゅうっと煮込んで野菜の水を出す。ゴロゴロいっぱいお肉を焼いて、野菜クタクタの圧力鍋に入れて再度加圧。レンジで茹でたジャガイモと、カレールーとガラムマサラ混ぜて弱火で。ああ、美味かったぜ! 日常バンザイ!

後遺症

コロナウィルスの後遺症について、いろいろ調べて、自分や家族の感覚を整理する。

嗅覚障害

病院で出たカレーは、カレーのにおいがした。これは夫とも共有。他の料理も例えば味噌汁の味噌の香りとか、ある。
ただ、娘がどうなのかはわからない。ただとてもふつうに、戸惑う顔をせずに食べているので、嗅覚は大丈夫かなと思う。

味覚障害

病院のご飯は、副菜が丁寧に作られていた。またメインのおかずも出汁を使うものについては、丁寧に出汁をとってる味がして。そうした味がわかるので大丈夫だと思っていた。
しかしコーヒーは、知ってるコーヒーの味とは少し違う。これは夫も共通。両親と同様にコーヒーをブラックで飲む娘の味覚はわからない。

倦怠感

今現在感じている「変な体感」は、どういう言葉で表現されるものかわからない。「新幹線の中を歩く感じ」と言ったら、夫が「わかる、わかる」という。

この変な体感は、アンケートで選択肢を選ぶとしたら。やはり「倦怠感」なのかもしれない。

それとちょっと歩くとドキドキする。入院を公費で処理する書類があり。ひと足先に退院したわたしと娘の分は、息子にポストに入れてもらった。
夫の分を、ちょっとどこまで歩けるかやってみたいとわたしが言った。うちから一番近いポストは歩いて数分の距離で、だんだんドキドキし始めて。ふっふっふっふと丁寧なウォーキングのように行って戻ってきた。

帰宅後、すぐにパルスオキシメーター使用。酸素濃度は問題無し、
心拍数は「100」。いつま計る時に80くらいなのでどうなのか。でも正常の範囲内。

健康な成人の安静時の脈拍数は、個人差はありますが、1分間に約60~100回となっています。
心拍数 | e-ヘルスネット(厚生労働省)

歩けない

娘が時々「しんどい」と言う。きちんと起き、よく食べ、よく眠る。何がどのように「しんどい」のかわからなかった。

夫が「新幹線の中」という表現が、わかると言う。この、なんとなく気持ち悪い変な体感。これが娘にも起きているのかな、と思う。

それで、聞き方を工夫してみた。

頭痛い?「あたま、いたくない」
気持ち悪い?「きもちわるくない」
苦しい?「くるしくない」
歩ける?「あるけない」

ああ、これか。なんとなく変なこの体感。これが娘にもあるのだな、と思った。歩けないわけではないが、この変な体感は座っているとあまり感じない。立ち上がって歩く時に、なんだか変な違和感がある。 

この辺りの感覚は、軽症で終わった息子にはないらしい。それ以外にも、息子には後遺症は全く無し。数日の微熱と咳のみの症状だが、発症日より二週間経過後も、まだ咳は少し残る。

体が冷たい

「風呂にいつまでも浸かっていたい」ような体の冷たさ。これは娘には無い模様。いっしょに風呂に入って、いつまで風呂入ってんだ?疑問を持つのは感じていた。

夫も体の冷たさがある、と。帰宅して風呂に浸かって、「冷たいものを温める」感が、特に手先や足先にあったとのこと。

夫の血圧は、入院して毎日の血圧測定で、上が90とか88とかになった。「冷たいのは血圧が低いからか?」と彼は言うが、わたしの血圧は下がってはいない。

ただ、わたしの体の冷たさは、徐々に軽減しているようで。4月28日の入浴時にはあまり感じなくなってた。
これは動いていなかった日々の影響からなのか。という結論になりつつある。「日常生活で動き始めた」という意味で、わたしは夫のちょっと先輩。

番外

コロナウィルスの後遺症には出てこないし、後遺症とも思えないが。
入院中から思っていたこと。肌が「絶好調」「今、すっぴん勝負可能」。
なぜかは全くわからない。入院中、暖かい使い捨てのお絞りで、顔を拭いていた。そして、何もつけずにそのまま。結局、化粧して落としてなんかつけて、みたいなことよりいいのか。わからない。
しかし帰宅して、ふつうにいつもの顔の洗い方をして顔になんかつけて。という日常に戻ったが、まだまだ絶好調は続いている。

顔だけではなく、体の肌もなんだかしっとり絶好調で。「体拭き」として、毎日看護師さんが使い捨てのお絞りを持ってきて、背中を拭いてくれた。背中以外は自分で拭いていたが、看護師さんたちが口々に「乾燥なし、しっとりすべすべ背中」と言ってた。換気強化なのかひどく乾燥した部屋で、なんだか謎。

謎と言えば。入院中、二週間髪を洗えなかったのに、頭が痒くならずなんだか髪がサラサラしていた、これも謎。

元気になったよ時点で、まだ鼻に仰々しい管が取り付けられてる状態で、自撮りして友人に送った。
その「髪の毛が汚れて見えない感じと、肌絶好調ぶり」は、友人たちもなるほどなるほど言うので、気のせいでもないと思う。
なかなかおもしろいことだと思うので、このことも加えて記録しておく。

夫が退院

4月27日、やっと夫が主治医と話ができる。マイクごしの説明だそうだ。「今日、発熱等なければ明日退院」。

4月28日退院。原則、午前中退院。わたしのようにお願いして午後にしてもらったわけではないので、10時に退院とのこと。11時前には家に到着。

持っている荷物を全て袋に入れて消毒して密封。72時間開封禁止。病棟のウィルスを外に出さないため。
この理屈でいうと、着てる服も同じ、帰ったら速攻でシャワーね、と、事前に伝えていた。

にも関わらず、家の中を動こうとするから、「シャワー!」と奥さん。
いや、もう、病棟のウィルスとか懲り懲り。

髪の毛を乾かす夫にベタベタベタベタしながら話をする。痩せた。たぶんわたしたちの中で一番痩せた。
わたしもそうだが、ふくらはぎが細くなった。仕事している息子に「ねえねえ、来てごらん」と言う。息子が夫の足を見て、うわあと声をあげる。

会社から電話。「体力がない」と夫が答えるのを聞くのは胸が痛い。「カミさんは大変だったんだぞ」と夫が言う。まあ先方にしてみれば、それがなんだなのかもしれないが。

会社にしてみれば。事故で仕事ができなくなり、今度はコロナだ。事故で出勤できずにテレワークになり。その時にパソコンを運んだ社員が「大変だ、大変だ」と言い。毎朝、毎朝、はよ仕事してくれ的な電話が入り。
会社は大変かもしれないが、息子の父に対しての尊敬度がめちゃめちゃ上がる。

おとうさんは。資格試験のときにとても努力をした。バブル期にものすごくハードに仕事をした。アンタ達にとってウルトラマン級に「いない人」だった。それでも「いる時」は、父親としてもがんばっていたんだよ。と、息子の尊敬に、さらに油を追加する。

とにかく。30日さえなんとかなれば、5月5日まで彼は休める。元々テレワーク体制で、4月12日から通勤復帰ということになっていたが、それも崩れた。「しばらくこのままテレワークで」と言えることや、長期連休があることなど、ラッキーだったと思うべきことかもしれない。

コーヒーが飲みたいと言うので、淹れる。わたしは病後初めてのコーヒー。
飲んですぐ、二人で「あれ?」と言う。コーヒーはコーヒーなんだが、コクがない。なんだか番茶みたいな味がする。

初めて味覚の変化を感じる機会になる。それを共感できる。そんな人生になるとは思わなかったが、まあ、仕方ないというか。すごいドラマだったねと繰り返す。

退院後

日記

23日金曜日

少し動くと苦しい。胸のあたりにヤバい感というか。連動して酸素濃度がすぐ下がる。リビングにずっと座っている。夜、這うようにベッドに入り、動き過ぎたと後悔する。

頻繁に酸素濃度を計る。80台が出るとひたすら深呼吸をして数字を上げる。深呼吸でなんとかなる。

夕食は「自宅療養者用配食」、ワタミの宅食という冷凍食品を食べる。配食セットにあったインスタント味噌汁をそえる。息子が用意して、息子が片付けてくれる。
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リビングにずっと座っているわたしに、息子がずっとしゃべり続ける。このうるささも、またしあわせ。

帰宅後すぐにシャワー浴びたが、夜風呂に入る。ずっと入っていたいと思うような「冷たさ」を、自分の体に感じる。寒さや寒気とちがう、「冷たい」。

24日土曜日

のろのろと昼近くまでゴロゴロする。12時近くに最初のごはん。「自宅療養者用配食」のパンと野菜ジュース、それと市販のカップスープ。

体が冷たいので仕舞い込んだ長袖のヒートテックを出す。冷え知らずで薄着日常、家の中でとっくに半袖で動いていた自分にとって「変な感じ」。

車を二週間動かしてないなと思う。エンジンをかけに行く。問題なくかかるが、なんとなくそのまま座ってる。シートは暖かい。エンジン切って家に入ると息子が心配していた。トイレ入ってたタイミングなので、わたしが車にいったのを知らず。家のなかを探していた。ごめん。

早めの夕飯は宅食。冷凍庫にあった小松菜でスープをつくってそえる。美味い。息子が片付けてくれる。

宅食は、ワタミの宅食。美味しくない。美味しいのだけど、美味しくない。どんな献立のものも全部同じ味。共通の「和風料理の素」をかけた感じ。でも消費しなきゃ終わらないよと、これを毎日食べ続けた息子が言う。

25日日曜日

「玉ねぎ じゃがいも ベーコン」を圧力鍋に入れてコンソメいれて「具沢山スープ」をつくる。美味い。12時近くの最初のご飯。それとパン。デザートに冷凍のブルーベリー。「おかあさんの作ったスープ」に二人が喜ぶ。

ちょっと動くと酸素の数値が下がる。ストローを数センチで切って口にくわえて呼吸をする。常に深呼吸をするようなことを狙ったもの。効果はある。ストローくわえて動く変なオバハン。おもしろいので自撮りして友達に送る。
友達はみんな、わたしがなにしても喜ぶ、「死ぬ死ぬ詐欺」。

息子の「療養期間」が昨日で終わったので、買い物に行ってもらう。牛乳、卵、ヨーグルト、冷凍の唐揚げなど。娘が唐揚げ唐揚げうるさかったので。

夕食は宅食。冷凍の唐揚げと味噌汁をそえる。味噌汁は、小松菜と卵。娘が唐揚げに喜ぶ。卵一個そのまま入った味噌汁はボリュームある。

26日月曜日

冷凍庫の宅食に終わりが見えてきて、本来入っていた食材が見える。
玉ねぎ、じゃがいもでスープを作り、冷凍のソーセージを入れる。

今日から息子が仕事復帰。テレワーク。息子の上司に「母親が挨拶したいと言ってる」と言ってくれと、息子に言う。いや、息子の上司はうちの家庭が壊れていく様を息子から聞き続ける。ご心配をおかけして申し訳なかったくらいは言いたい。相手のポジションは「課長」。小学生の子がいる40代。

zoomに入るか?というので即答で「いやだ」と言う。初対面でやつれたオバハンの映像とか、こっちが地獄。電話で話す。「ご心配をおかけしました」で始まり。いい感じのひとでありがたい。調子に乗って「聞きたいことある?」的なことを丁寧に言うと、病棟の中のことを聞かれる。いかにスタッフによくしてもらったかの話をする。医療従事者応援の花火とかの馬鹿馬鹿しさを痛感する、と答える。ああ、取材とか出てくる病棟の話はみんなそんな感じですね。やっぱりそうなんだな、とかそんな会話になる。

とにかく、ご心配をおかけした。だから直接ご挨拶をしたかった。大人の年齢の人間の職場に親が出るなどおかしなことだし、もう二度と出ない。
だから、せっかくの機会なので言わせてほしい。

不器用な子なので「打てば響く」とか「カンやその場のセンス」には期待できないと思う。でももうおわかりと思いますが非常に真面目な子です。今後ともよろしくお願いします。

夫に「上司に挨拶したい」という話をしたら「親が出たら向こうが緊張する」と繰り返す。いや、zoomで言ってくる時点でそれはないと思うし、「きっとおとうさんは、そういうの自分が緊張するんだよ」と息子とこそこそ話す。息子はいろいろなシチュエーションでのわたしを見て育っているので、「かーちゃんのコミュ力」に信頼があり「上司に挨拶」言われても、特に抵抗なかったとのこと。

昼食にパスタ。玉ねぎとツナを炒めて朝のスープの残りを投入。美味い。
写真を夫に送る、夫羨ましがる。この程度はもう作れるよ、待ってると伝える。

夕食は、最後の宅食。冷凍庫にあった赤魚で寿司屋の味噌汁のような味噌汁。冷凍の唐揚げ。
宅食残2。これはいつかわたしが消費しよう。

短いストローなど投げ捨てるほど、「動いても酸素濃度の数値が落ちなくなる」。パルスオキシメーターの数値を指を突き出して息子に見せる。ものすごく安心した顔をする。心配かけたね。

動けるが、動く体感は相変わらず変。あなたは仕事が始まったのだから、気にせず仕事をしなさいと言って、皿洗いの片付けなどから彼を解放する。
無理しないように、休みながら動く。

元気で、その元気をわたしが持て余し気味だった娘が、夜「しんどい」と言い始める。横になれる場所をつくり、夜はいっしょに寝る。体温や数値には問題なし。食欲も問題なし。

27日火曜日

カレースープにベーコンエッグの朝ごはん。玉ねぎとじゃがいもの在庫で作り続けるスープの「味変」に、カレー味というスターを投入。美味い。

昼飯は温かい蕎麦。冷凍庫にあった挽肉と小松菜と片栗粉であんを作る。息子が蕎麦見て感激する。

電話が苦しくなくなったので、母とゆっくり電話で話す。看護師さんとの別れの話で、やはり泣く。

母が言う。「感謝に大騒ぎするのは、それはあの子の人柄。看護ではなく、看護師本人を見てるのはあの子の個性。回復を周囲が喜ぶのはあの子が作り出す世界」と、姉が言っていたと言う。へー、とか思う。

夫の退院が決まる、明日。主治医から話があったとのこと「マイクごしで」。とうとう主治医と対面をせず、入院を終えることに。入院日数は二週間。

帰って何が食べたいかと聞くと「トマトソースのパスタ」と言う。了解、ぜんぜん作れる。おっけー。

ネットスーパーで買い物だな、と思ったら、amazonが近所のスーパーと提携していたのでそれを利用。卵やパン、冷凍鶏胸肉2キロ、冷凍豚コマ1キロ、豚コマパック、あとトマトソースのパスタに使う茄子。
それに加えて、スーパーの弁当を頼んで夕食にしようと物色。
あ、寿司だ。と思う。「寿司食べたいか?」聞くとふたりが歓声をあげる。夫に「あなたいないが寿司食っていいか?」聞くと、こどもたちに頑張った褒美だ、食わせろと返ってくる。

夕飯は、油揚とエノキと玉ねぎの味噌汁。豚コマを炒めて甘辛味をつけて、サニーレタス入れてマヨネーズ。照り焼きハンバーガーの中身みたいなもの。と、寿司。
息子が焼いた肉おかずを見て、こんなものでも崩れ落ちそうなほど感激する、あと寿司も美味かった。

メインを作れるほどの回復ではないかも、思って豚コマくらいしか買わなかったが。この程度で感激されてよかったと思う。ひとりで自炊しようにも、買い物に出てはいけない。食に不自由な生活をさせたなと思う。

昨日「しんどい」言った娘は、やはり午後から「しんどい」言うのでリビングに横になれる場所を作る。うつ伏せになってドヤ顔するのがかわいい。「コロナとの戦い方はうつ伏せ寝」。この子の中に看護師さんが生きてると思う。

看護師さんは娘に対して「名前にさん」「ちぃちゃん」「ちっち」と、人によって呼び方が違った。生まれて初めての「ちっち」呼びがいたく気に入ったらしく、わたしにも「ちっち」呼びを要求するが、わたしがそのことをすぐ忘れてやっぱり「ちぃちゃん」と呼んでしまう。

娘の事業所が娘の在宅作業品を持ってきてくれることになった。会いたくないからポストに入れて、チャイム鳴らしてという。「会いたくないから」言ったくせに、やっぱり出てしまう。職員さんが気持ちいっぱいの顔でわたしに「おかえりなさい」と言う。胸がいっぱいになる、「死ぬ死ぬ詐欺」。

保健所に電話

コロナに感染すると、「医師の届出に基づく通知書」という書面がくる。要は保健所からくる「あなたコロナね」という公的書類。これがわたしの分だけ、届いてなかった。

それでその送付記録を教えてほしかったこと、変異株の検査の結果のこと、を聞きたかったのと、わたしの療養の報告記録はあるのか、あの対処はどうだったのか、とか問い合わせたかった。

コロナ担当につながり、名前を言ったら向こうがかわった。
「さとみさん!スズキ(仮名)です!」
「わあ、スズキさん!」

確か苦しい苦しい療養サポートに叫び続けていた頃、保健所から電話があった。「あなた、サポート電話の記録がどんどん増えていく、大丈夫なの?」と。「パルスオキシメーターの数値が低いと、手を温めろとか、深呼吸してはかれ、とか、30メートル歩き回ってからはかれ、とか言われる。何もしない数値は認めてくれない、もうおかしい!どうしていいかわからない」。

と、この人にわたしは訴えた。もう苦しい時期で記憶が曖昧だが、この人の声と名前をわたしは思い出した。

記録は保健所に届くそうだ。だからわたしがその後入院対応になったことを知っていて、そして、

「さとみさん!人工呼吸器治療から帰ってきたのね!」

もう、家族対応だから、ストレート名前呼び。そして、喜んでる。そして、その情報、違うし!

いや、手前で戻りました。

「ご家族が同じ病院に入院したタイミングのときは、さとみさんの病状はどんな感じだったんですか?」

娘の入院先に関して「おかあさんの病室が使える」情報から知ってた。その病院調整に保健所は関わったそうだ。

要するに、うちのドラマは書面でこの方の手の中だった。そしてすげー心配していた。

ここでも愛かよ。

入院まで、入院後、退院までの流れを簡単に語る。聞き方に、また愛。

そして、療養サポートの話。
どう考えても、扱いがおかしかった。このこと、確実にマイナスデータとして生かしてほしい。
だいたい高熱出しているときに「夜、解熱剤を飲んだら朝には効き目が切れてしまう。わたしはパルスオキシメーターの数値を聞かれる9時頃に、30メートル歩いてからはからなきゃいけない。だからその時に熱を下げなきゃ。だから夜解熱剤を飲めない」とか、まじめに口に出して言ってたんだぜ?何、追い込まれてるんだ。だれがここまで追い込んだんだ、と思う。苦しくて、まともな思考が動いていない。

ちなみにこの「30メートル歩いてからはかれ」は、「家の中で30メートルなどわからない」というわたしに「ダイニングテーブルのまわりを10周」と言われた。そしてその後出る数値の「一番高いものを報告しろ」と。

ぐるぐるぐるぐる歩いた。最低の数値がいくつだったのか忘れたが、ぐるぐる歩いて「95」が一瞬出たので報告した。でもその翌日に結局出来ず、苦しい苦しいこんなことできないと叫んだら、「できるからやれると思った。できないのならやらなければよかったのに」と言われて脱力した。

「人工呼吸器治療に入った」で終わっていた側は、このことを非常に真摯に受け止めてくれた。大きな反省材料として残すと。
ただ、患者増加の勢いがつくと、サポートの中も混乱する。病床確保のために、自宅療養者に出来るだけ頑張らせようとなってしまうところは否定できない。

その時に、圧をかけてくる保健師の存在を、真面目になんとかして欲しい。自宅療養者に死者を出してはいけないと思う。それは病死ではなく人災だから。と、わたしは訴える。

それと変異株、どうなっていますか?

変異株だったそうだ、わたしたちは。検査後、変異株としての結果が出たタイミングは三人とも入院中だったので、連絡が遅れていたそうだ。型まではわからず。そして変異株患者が増えすぎて、変異株だからという対応は基本なくなったとのことだった。

感染力が高い。だからわからないのか、どこでどう感染したか。
重症化が早い。だからわたしはあんなに苦しかったのか。

そして保健所に入るのは入院までの記録で、退院情報は来ないそうだ。
だから。「数値の受け取りがおかしい」と叫んだわたしが「人工呼吸器治療に入った」。本当に心配されていて、回復を大きく喜んでくださった。

「本当によかった。前と声も感じも全然違う!本当によかった!」

コロナ対応。いろいろあるが。結局はもらうのは愛かよ、と思った。
この保健師さんには、後日、会いに行く約束をした。行けるところには、行く。

報道特集

帰宅して二日目、「報道特集」をなんとなく見る。夕食の片付けをしてくれる息子に「ねえ、見て!あれ!」と、わたしが突然叫ぶ。

あれだよ!わたしが使ってた酸素投与のハイパワー機器!

それから夫にLINEする。テレビでわたしが使ってた機器出てきた!

tver.jp

TVerで再度見る。18分30秒あたり。
「重症化が懸念される患者に使う」。

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しかしあれだな。大船の病院が出てきて、鎌倉市にあれだけ大きな中等症の施設がある。入院した病院も満床ではなかった。

自宅療養者用のサポートは、苦しい苦しいと訴えても「横浜市内に病床の空きはない」「横須賀あたりか県外か」って言われて。苦しいのを助けてくれるのならどこでもよかったのに。

結局、入院したのは横浜市内の自宅から9キロのところ。それに横須賀まで行かなくたって、報道特集で出てきた病院は鎌倉にあんなに大きな病床があったじゃないかと、なんかふつふつと怒りが湧いてくる。

まいるな。自宅療養のサポート、ちゃんと機能してないよな。なんであんな脅しみたいな言い方したんだろう。あの時あんな対応だったとか、まだまだサポートに疑問と不満は残るけど。これはここに書かないで、直接保健所と話をする。

退院

4月22日の夜。病院は9時消灯で、電気を消される。もちろん真っ暗にされるわけではなく、iPhoneは明るい。当然、いつもこの時刻に「就寝」するわけではない。

それでもかなり早めに眠りについた。そして午前0時過ぎに一度目が覚めた。それからなんとなく、浅い眠りを繰り返した。

夢を見ていた。洗濯をしていた。家の中を動き回っていた。それから座ってパルスオキシメーターに指を突っ込んでいた。
数値は91とかで、ああヤバいと思いながら深呼吸を繰り返す。
このシーンをずっと繰り返していた。

そして朝がくる。朝一番で来るのは昨日の夜勤の看護師さん。この看護師さんとは最後だろう。昨日、この人に「ひとりひとりにさようならの挨拶をできない」悲しみの話をはした。
あなたには別れの挨拶ができるということですね。ありがとう、本当にたくさん感謝しています、さようなら。
このさようならで、両手をヒラヒラと劇振りするおかしなやつれたオバハン。
看護師さんは同じようにヒラヒラと手を振ってくれる。

それでわたしはワガママを言う。5月21日、娘が娘の主治医の診察を午前ラストで、わたしがわたしの主治医の診察を午後イチになった。昼ごろウロウロしてる。顔見せられる人は見せてほしい。もうワガママな手を振りババア。

通常、退院のタイミングは午前中だそうで。「体のために昼飯食わして帰してほしい」の希望が通る。
13時半過ぎに看護師さんがきて、わたしたちの体についたモニターを外し、着替えて退院になるという説明。

13時半過ぎに訪れたのは「絶対に体調を落としてはいけない」と4月14日に言った男性看護師だった。
「あの日のあなたを一生忘れない」とまた彼に告げると「ここ出たら三日で忘れる」と言うから「舐めんなよ」と答える。

自分は男性だから、娘のモニターはあなたが外してほしいと言って、彼は娘のベッドのカーテンを引く。娘の乳房の近くの心電図のコードが付いたシールを外していく。

それから「72時間ルール」の説明を受ける。
財布と携帯以外、荷物は全部密封されて消毒。72時間経つまで開けたらダメだと。病棟のウィルスがついているからと。

夫が娘の保険証を持っているから受け取りたいと言うと、「それは昨日までは大丈夫で、今日はもうダメ」と言われる。わたしたちに関わるスタッフは、今日は他の患者と接触してはダメで、他の病室からの何かを受け取るとかもってのほか、なんだそうだ。
レッドゾーンから外に出る人に病棟のウイルスを付着させないルールの徹底。結局、保険証だから渡したほうがいいだろうと、ビシャビシャに消毒された保険証がジップロックに入れられて渡された。

レッドゾーンと普通の世界の扉の所で、覗き穴のような窓から「荷物の袋の数」を聞かれる。そして荷物は消毒され、わたしと娘はレッドゾーンから外の世界へ歩み出す。
その時に、そこまで誘導した男性看護師に「握手してもいい?」と聞いて、そっと彼と握手する。

扉の向こうは大きなナースステーションだった。そこで外来の受診の予約の話をされて病院の診察券を受け取る。カバンも袋も全て密封された袋の中なので、外来の予約票やら退院説明やらの書類や診察券をビニール袋に入れてもらう。

それから。今日そこにいる看護師さんたちが集まってくれる。全部で6人くらいだったか。仰々しいフェイスシールド無しというだけで、ちゃんと一人一人の顔がわかる。こんな顔の人だったのかと思ったりする。さっきの男性看護師が、防護ガウンとフェイスシールドを外した姿でわたしの前に現れる。

そこでわたしは選挙演説のようにスピーチをして頭を深く下げる。

お世話になった。ハイパワーな機器の管理をよくしてくれた。日々の看護に一人一人の個性があった。わたしの回復を口々にみなさんとても喜んでくれて、それはとても嬉しかった。わたしはここで経験したことを一生忘れない。本当にありがとうございました。

それから。ここに来てはいけないということを聞いて、きちんとさようならの挨拶をしたいと思っていた。
みなさん、ありがとうございました。さようなら。

「さようなら」で、両手をヒラヒラと劇振りする。元々わたしは会話の時に動きが大きい傾向もあるが、ババアの両手を劇振りとか、それはそこそこちょっと変なヤツだと思う。変なヤツだと思うが、心のままの動きなのでもう止まらない。

幼稚園の先生のようにヒラヒラヒラヒラ、両手を劇振りして、わたしは歩き出す。次の扉の前でまた振り返って両手を劇振りして、最後のさようならをする。看護師さんたちは、みんな、同じように両手をヒラヒラさせて見送ってくれた。さようなら、愛しい人々。

台車に消毒された袋を乗せて、看護師さんが二名、わたしたちを送ってくれる。病院の一階のふつうの世界がなんだかとても眩しい。
「お迎えは?」と聞かれて、迎えを言ってくれる人はいたが断った。わたしはまだ人と会うのが怖い。タクシーで帰りますと答える。正面玄関からタクシー乗り場に送ってくれて。待機のタクシーに声をかけて、荷物をトランクに乗せてくれる。至れりつくせりの支援を受けて、わたしたちは自宅にもどる。

帰宅して息子に「72時間ルール」を説明し、その理屈でいうと着てる服もダメだよねと。
帰宅後速攻シャワー浴びて、着ていたものをゴミ袋に入れてアルコールかけて密封。

それから息子にお願いする。大人になった息子にこんなこと言うのおかしいかもしれないが。ちょっとわたしにハグさせてほしい。

息子にがっつり抱きついて。そうしたら感情弾けて泣けてくる。
「怖かったよー」と泣く母を、息子がそっと抱きしめる。「よくがんばったね」。

「がんばったよー」と答える母のそばで、娘が元気に叫ぶ。「がんばったねー」。

母に電話する、義妹に電話する、娘の事業所に電話する。娘の事業所の職員さんと娘が電話で話す「がんばったよー!」。

そのあと、息子のおしゃべりが止まらない。しゃべり続ける息子の話を聞きながら、ドラマが終わっていく喜びも止まらない。