リツエアクベバ

satomies’s diary

退院

4月22日の夜。病院は9時消灯で、電気を消される。もちろん真っ暗にされるわけではなく、iPhoneは明るい。当然、いつもこの時刻に「就寝」するわけではない。

それでもかなり早めに眠りについた。そして午前0時過ぎに一度目が覚めた。それからなんとなく、浅い眠りを繰り返した。

夢を見ていた。洗濯をしていた。家の中を動き回っていた。それから座ってパルスオキシメーターに指を突っ込んでいた。
数値は91とかで、ああヤバいと思いながら深呼吸を繰り返す。
このシーンをずっと繰り返していた。

そして朝がくる。朝一番で来るのは昨日の夜勤の看護師さん。この看護師さんとは最後だろう。昨日、この人に「ひとりひとりにさようならの挨拶をできない」悲しみの話をはした。
あなたには別れの挨拶ができるということですね。ありがとう、本当にたくさん感謝しています、さようなら。
このさようならで、両手をヒラヒラと劇振りするおかしなやつれたオバハン。
看護師さんは同じようにヒラヒラと手を振ってくれる。

それでわたしはワガママを言う。5月21日、娘が娘の主治医の診察を午前ラストで、わたしがわたしの主治医の診察を午後イチになった。昼ごろウロウロしてる。顔見せられる人は見せてほしい。もうワガママな手を振りババア。

通常、退院のタイミングは午前中だそうで。「体のために昼飯食わして帰してほしい」の希望が通る。
13時半過ぎに看護師さんがきて、わたしたちの体についたモニターを外し、着替えて退院になるという説明。

13時半過ぎに訪れたのは「絶対に体調を落としてはいけない」と4月14日に言った男性看護師だった。
「あの日のあなたを一生忘れない」とまた彼に告げると「ここ出たら三日で忘れる」と言うから「舐めんなよ」と答える。

自分は男性だから、娘のモニターはあなたが外してほしいと言って、彼は娘のベッドのカーテンを引く。娘の乳房の近くの心電図のコードが付いたシールを外していく。

それから「72時間ルール」の説明を受ける。
財布と携帯以外、荷物は全部密封されて消毒。72時間経つまで開けたらダメだと。病棟のウィルスがついているからと。

夫が娘の保険証を持っているから受け取りたいと言うと、「それは昨日までは大丈夫で、今日はもうダメ」と言われる。わたしたちに関わるスタッフは、今日は他の患者と接触してはダメで、他の病室からの何かを受け取るとかもってのほか、なんだそうだ。
レッドゾーンから外に出る人に病棟のウイルスを付着させないルールの徹底。結局、保険証だから渡したほうがいいだろうと、ビシャビシャに消毒された保険証がジップロックに入れられて渡された。

レッドゾーンと普通の世界の扉の所で、覗き穴のような窓から「荷物の袋の数」を聞かれる。そして荷物は消毒され、わたしと娘はレッドゾーンから外の世界へ歩み出す。
その時に、そこまで誘導した男性看護師に「握手してもいい?」と聞いて、そっと彼と握手する。

扉の向こうは大きなナースステーションだった。そこで外来の受診の予約の話をされて病院の診察券を受け取る。カバンも袋も全て密封された袋の中なので、外来の予約票やら退院説明やらの書類や診察券をビニール袋に入れてもらう。

それから。今日そこにいる看護師さんたちが集まってくれる。全部で6人くらいだったか。仰々しいフェイスシールド無しというだけで、ちゃんと一人一人の顔がわかる。こんな顔の人だったのかと思ったりする。さっきの男性看護師が、防護ガウンとフェイスシールドを外した姿でわたしの前に現れる。

そこでわたしは選挙演説のようにスピーチをして頭を深く下げる。

お世話になった。ハイパワーな機器の管理をよくしてくれた。日々の看護に一人一人の個性があった。わたしの回復を口々にみなさんとても喜んでくれて、それはとても嬉しかった。わたしはここで経験したことを一生忘れない。本当にありがとうございました。

それから。ここに来てはいけないということを聞いて、きちんとさようならの挨拶をしたいと思っていた。
みなさん、ありがとうございました。さようなら。

「さようなら」で、両手をヒラヒラと劇振りする。元々わたしは会話の時に動きが大きい傾向もあるが、ババアの両手を劇振りとか、それはそこそこちょっと変なヤツだと思う。変なヤツだと思うが、心のままの動きなのでもう止まらない。

幼稚園の先生のようにヒラヒラヒラヒラ、両手を劇振りして、わたしは歩き出す。次の扉の前でまた振り返って両手を劇振りして、最後のさようならをする。看護師さんたちは、みんな、同じように両手をヒラヒラさせて見送ってくれた。さようなら、愛しい人々。

台車に消毒された袋を乗せて、看護師さんが二名、わたしたちを送ってくれる。病院の一階のふつうの世界がなんだかとても眩しい。
「お迎えは?」と聞かれて、迎えを言ってくれる人はいたが断った。わたしはまだ人と会うのが怖い。タクシーで帰りますと答える。正面玄関からタクシー乗り場に送ってくれて。待機のタクシーに声をかけて、荷物をトランクに乗せてくれる。至れりつくせりの支援を受けて、わたしたちは自宅にもどる。

帰宅して息子に「72時間ルール」を説明し、その理屈でいうと着てる服もダメだよねと。
帰宅後速攻シャワー浴びて、着ていたものをゴミ袋に入れてアルコールかけて密封。

それから息子にお願いする。大人になった息子にこんなこと言うのおかしいかもしれないが。ちょっとわたしにハグさせてほしい。

息子にがっつり抱きついて。そうしたら感情弾けて泣けてくる。
「怖かったよー」と泣く母を、息子がそっと抱きしめる。「よくがんばったね」。

「がんばったよー」と答える母のそばで、娘が元気に叫ぶ。「がんばったねー」。

母に電話する、義妹に電話する、娘の事業所に電話する。娘の事業所の職員さんと娘が電話で話す「がんばったよー!」。

そのあと、息子のおしゃべりが止まらない。しゃべり続ける息子の話を聞きながら、ドラマが終わっていく喜びも止まらない。