リツエアクベバ

satomies’s diary

退院前日

4月23日に設定された退院だったのだが。4月22日の朝、わたしの体温は37.6を記録した。ちょっと年配の女性の看護師さんが体温計を見つめて「あら」と言った。

「最終的には医師の判断なんだけどね、退院に必要なのは解熱後72時間でもあるんだよ」。

え?いや、だって。

「この病院は、もうちぃちゃん単独の退院はさせない方針決定してるから。病院を信じて。あなたあれだけの状態だったのよ。ちゃんと回復しよう」
「とにかく今日は動いちゃダメ、安静にしよう」
「ほら、うつ伏せうつ伏せ」

枕を抱えてうつ伏せを維持しながら、
もうちぃちゃんに言っちゃったしとか思う。どうしよう。こんなところで熱とか。わたしのドラマの展開はまだ続くの?

突然引き摺り込まれたドラマだった。怖かったのは、このドラマがどこでどう展開してどう終わるのか。わたしはそのドラマのどこの位置にいるのか全くわからないこと。
退院で見えた先が、また見えなくなるの?

男性看護師が答える、「大丈夫、映画でいえばもう犯人がわかった。エンドロールはもうすぐそこ」。

その後の検温で37.1。「よかったねー」と言われる。要するに37.5がライン。わたし用に置かれた体温計で、指示もされないのに何度も計る。37.4とかいやん。

16時過ぎにドクターがくる。

「このタイミングの37.5はおそれることなし。投薬で抑え込んだ反動もある。
この微熱あたりは、帰宅後も可能性あり。無理せず休めば問題ない」。
「明日退院、オッケーです!」

それから娘にも、「明日退院、オッケーです!」と大きな丸を作って言った。

そして四週間後の外来での受診の予約を入れた話をする。
会えるのね、わたし、元気な姿でドクターに。

「こんなサージカルマスクやフェイスシールド無しに、お会いできますよ」

ああ、うれしい。ああ、うれしい。めっちゃきれいにしてくるから。ちぃちゃん、めっちゃかわいくしてくるから。

でもさ、あのね。とわたしは続ける。続ける質問にドクターが答える。

「ああ、それね。ダメなんですよ」。

つまり。コロナ病棟のナースステーションに来ることはできない。
わたしは、お世話になった愛しい方々に挨拶できることなく別れていく。

その後、検温血圧測定にきた看護師さんに、わたしはお礼と悲しみを訴える。
わたしは。わたしは。別れの挨拶も出来ずに去っていく。
コロナ病棟は、看護師が病室に入る時間が短く、タイミングも少ないし、誰がいつ担当で病室に来るかもわからない。
もう既に、別れが来ていたのだなと。

お世話になった。ひとりひとりの個性があった。さようならも言えずにもう来ることもできない。わたしが。わたしがお一人お一人に感謝していると。もうお会いできないことを悲しんでいると。そう皆さんに伝えてください。

気づいたら、大泣きしながらこれを言ってた、退院前夜。めんどくさいオバハンだ。

ヒゲ医者

なんだかどこかの偉いお医者さんらしい。よくわからんけど。なんだかすげーヒゲヅラらしい。よく知らんけど。

というヒゲ医者と、ネット上でいつ知り合ったか、きっかけがなんだったかももう忘れた。
ヒゲ医者は、医師らしい近寄りがたさを若干醸し出しながらも、ネット上でとても人間臭く動く男だった。
わたしが最初に接触したのは、彼がネット上に出したデータかなんかについて「横浜はこんなですわよ」みたいなことを直接そっと手渡したみたいなことだった気もするが。それももう昔過ぎて忘れてしまった。

Twitterが一般的になり、ヒゲ医者はTwitterを駆使する素晴らしい存在になっていった。彼の発信やリツイートを、多くの人がありがたがってるのはとてもよくわかる。素晴らしいと思っていた。

そのうちに。ヒゲ医者はNHKの重要な番組に関わるようになり。わたしは映像で彼を知っていくことになる。

今回のこのコロナ。わたしのドラマにこのヒゲ医者は「すげー配役」を無理やり与えられてしまう。

わたしは。コロナに感染し、入院治療に入っていく。この医療体験を、医師であるヒゲ医者に話したくなった。
医師!医師!と呼びかけて、直でやりとりできる道を確保する。医師にコロナ医療を報告するようなやり取りが始まった。

ヒゲ医者は、気の毒な役割を与えられた。結果、ヒゲ医者はわたしが衰弱していく様をリアルタイムで知らされ続けることになった。そして「医師。もうだめだ」という挨拶も受け取らされてしまう。

というログが、ヒゲ医者とのホットラインにありありと残っていて。そこにわたしの命のドラマがあった。今読むと、ヤバさバリバリでマジヤバい。
しかしすげー記録になっており。信頼できる人間がいるということは素晴らしいのだと思った。
復活の方向の情報をかなり早くに渡せたことで、いろいろ勘弁してほしい。

自慢したいことがある。死にそうな中で、わたしのセンスは素晴らしい。今回わたしを応援してくれた人が、わたしのことを「イカしてる」と表現してくれたのだが。
ヒゲ医者とのログで、おれ、めっちゃイカしてると思ったことがある。

もうダメだ、死ぬかもの最後に彼に渡したメッセージがヤバすぎる。
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最後にこれ持ってくるとか、おれ、めっちゃイカしてる。

ヒゲ医者!ありがとうね!

知的障害

「あなたのお子さんは21トリソミー。ダウン症です」

ここからわたしの人生に「知的障害」というものが関わっていくわけだが。
「おかあさん、どう思いますか」によくわからんと答えたくなることは多かった。わたしは知的障害の心理やメカニズムなど知らん。わからない。

どういうこっちゃか知りたくて、娘の乳児期、まだ娘がひとりっこの頃、わたしは放送大学の受講生になった。発達心理学に関して片っ端から授業を受けた。最初はちんぷんかんぷんだったが、やがて発達心理学の主だった研究者の名前が自分の中でポピュラーになる頃、娘が丁寧な教材のように「ゆっくりと発達していく」のが理解できるようになった。

しかし、それでも、実際には、知的障害というものがよくわからん。
そしてそれは、何かが起きたときに、「ああ、知的障害というものはこういうことなのか」とわかる。
今回のコロナ感染に、また気付かされたことがあった。

娘は完全に回復して、コロナ患者の最低入院日数の「10日」を終える。わたしの回復を確認したわたしの主治医が、「母娘同時退院」の計画案を出した。「医療処置終了三日後退院」の基準を満たすために、4月20日の担当看護師は慎重に数字を見ながら判断し、時間刻みでわたしの酸素投与の量を落とし、夕刻には酸素投与を終え、その日中に「医療処置終了」のラインを敷いた。

そしてわたしが4月20日の夜「ちぃちゃん、おかあさんとおうちに帰ろうね」と言ったら、この人は即答で「いやだ」と答えた。

え? どういうこと?

ゆっくり聞き出してみると、わたしたちが壊れていく生活が「こわかった」「くるしかった」「つらかった」のだそうだ。そして病院に来て「うれしい」。ここで人に助けられたことをよく理解していて。その人たちがいない、おかあさんと帰るは、「こわい」らしい。

なんかすげーなるほどだった。知的障害というものは、基本的に情報難民な状態に放り出されているのがよくわかった。

4月21日の朝、夜勤の看護師さんが朝の検温に来た時に、わたしは看護師さんにこの話をして礼を言った。
この子は皆さんに助けられたことをよく理解している。そのことをみなさんに伝えてほしい。

わたしは、知的障害の娘を育てながらも、知的障害というものをわかっているわけではない。こうして何かが起きて理解する。それもきちんと説明した。

4月21日の8時過ぎ、主治医がわたしに退院の話をしにきた。主治医は土曜日と言い、いやちがう看護師が立てた計画は金曜日で、それに向かって計算は合ってるよ、とわたしが答える。

つまり。「医療処置終了三日後退院」。この線をどうつけるか。医師が引いた「母娘同時退院」を達成するために、昨日の看護師が綿密に時間刻みでスケジュールを作ったということで。それは確実に昨日の担当看護師の功績だった。
主治医が、そうなっていましたか。昨日中に終了させましたか。では金曜日退院オッケーです。と言う。

ああ、そうか。やはり昨日の看護師さんがすげーのか。名前を聞いておいてよかった。医師に看護師の名前を渡す。感謝していると伝えてください。

そしてそれから、わたしは主治医に話をする。わたしには知的障害というものはよくわからん。折にふれ、こういうことかと理解する。
そうした前提話をしてから、娘が「いやだ」と言った話をした。

そうしたら。この若く人間性の高いドクターは、「ご挨拶しなきゃ」と言った。

娘のベッドに行き、腰を落として視線を合わせて「おかあさんの主治医の○○です」から話を始めた。幼稚な単語を使うことなく、ふつうに大人に話すのと寸分変わらず退院を説明した。そして、それから「退院、オッケーです!」と全身で大きな丸を作った。
娘が笑顔で「はい」と答えた。

素晴らしい、素晴らしすぎる、この人。話が通じる相手に出会うって素晴らしい。ほんと、マジ、しあわせ過ぎる。

主治医にオッケー、あなたは素晴らしいと伝える。あなたが伝えようとする芯がきっちり伝わったとわたしは思う。本人の表情が柔らかくなった。素晴らしい。ありがとうございました!

医師の人間性に感動し、感謝しながらも、わたしはそっとほくそ笑む。
ふふふ、知的障害とはなんぞやという、その経験をこの人に渡せたぜ。
いや共有できるひとを増やしたいくらい、知的障害とは謎で。そしてその考察はいやけっこう、インタレスティングなものなんだぜ。

怒涛の4月14日

4月12日に、わたしはこのコロナに殺されるかもしれんところにいるわけか、と自覚したわけだが。
冷静に受け止めながらも、4月14日に何かが変わるんではないかと漠然と期待をしていた。

冷静に受け止めていたのは、全ての動きが突然すぎて、人生を俯瞰で観た感じだった。
いや、ちがう。元々わたしは起きることが重大なら重大なほど、逆に冷静になるところがある。感情は後からくる。ああ、わたしは頑張ったのか、とか、自分が自分に教えてくるタイミングがある。今回それがいつくるのか。きっと日常を取り戻してふつうの夕飯を食ってるときかなんかの気もする。突然泣きながらメシを食うのもまたよきかな。

さて4月14日。4月13日の夜は最悪だった。どう説明していいかわからないが、「もう人工呼吸器に任せて眠りたい」と自分から告げそうなところにいた。そんな感じで4月14日の朝が来た。

4月14日の11時少し前、わたしは療養サポートの電話を受信する。夫のことで。夫はそばにいるか、今夫の電話が応答しないと。自宅療養者は細かく緊急連絡先が聞かれ、彼の緊急連絡先にわたしの携帯番号があった。

「わたしは入院しています。そばにいません。自宅の電話を鳴らしてみてください」

この電話は、療養サポートが夫に入院対応が決まった連絡をするものだった。夫は高熱が続き始め、解熱剤が配達されていた。夫の検査の検体はランダムな検査で「変異株」と連絡されていた。

「娘を置いて入院はできない、二人共の入院を」と夫が答える。
娘の事業所が障害福祉課に連絡をとり、保健所サポートを依頼する。
わたしが「この病院は満床ではないと言っている、わたしは四人部屋をひとりで使用している」と返し、その情報が夫を通して伝えられる。

何時だったか。信頼する男性看護師が、わたしのベッドに来て真剣な顔で言った。

「娘さんをここに運ぶ。あなたは絶対に娘さんの世話をしてはならない。あなたは絶対に状態を悪くしてはいけない。約束できるね?」

夫から連絡がくる。二人とも、わたしのいる病院に搬送が決まった。お迎えは「14時」。この連絡を夫がわたしに入れたLINEは「13時16分」を表示。バタバタで娘の入院のための衣類を指示。

そして病室ではベッドの準備が着々と動き、娘がきた「おかあさん!」。何もわからず連れてこられた娘が驚くのは当たり前だ。大きな声で驚いていた。わたしは「ちぃちゃん」と声をかけながら、必死にうつ伏せを維持する。コロナとの戦いで、伏せた体勢の指示があった。「絶対に状態を悪くしてはならない」とわたしに告げた看護師との約束を守らなければ。

そうやって、4月14日は怒涛の展開を見せた。そしてわたしが知らない間に、わたしの酸素投与のパワーがこの日下げられていった。この怒涛の展開と並行して、わたしの体は回復にベクトルを向けた。翌日にはこの機器のパワーは最低まで下げられ、4月16日に医師が「もう大丈夫」と告げたのだった。

わたしは。4月19日の夜、「絶対に状態を悪くしてはいけない」とわたしに告げた男性看護師と話ができるタイミングに、彼に深く礼を言った。
娘には看護師さんの指示が通る、娘はわたしが病人だときちんと理解できる。「絶対に娘の世話をしてはいけない」は、そもそも心配無用な話だった。
ただ「絶対に状態を悪くしてはいけない」と告げる男性看護師の言葉には、迫力のある愛情があった。わたしは、この迫力のある愛情に是が非でも応えなければとあの時思った。わたしはあの日のあなたを一生忘れない。ありがとう。

いやだって。そばにきたら動きたくなるだろうとか、いやだって。と彼はぶつくさと照れる。
いや、そんなことではない。根本に深く伝わる愛情がある。あなたの看護師センスは素晴らしい。その素晴らしさにわたしは大きく助けられた。わたしはこのことを一生忘れない。ありがとう。いや、マジだぜ!

翌日の4月20日、わたしは主治医と会話する機会を得て、この男性看護師の話をする。彼のあの迫力ある愛情は素晴らしかった、わたしは一生忘れない。わたしの話を芯で理解した顔をちゃんとして、主治医がわたしに言う。「共に働く仲間を褒められるのは光栄です」。

いやあなたの病状説明も素晴らしかった。情報をそのままに、誇張も省略もなく、現実をしっかりわたしに渡した。しかもわかりやすく。本当に感謝しています、ありがとうございます。
40代に入るか入らないか、もっと若いかの女医だった。自分をドクターだと言わずに来るから、最初看護師かと思ったくらいだった。マスクにがっちりフェイスシールドでみな来るから、こっちは大半誰が誰かなどよくわからん。その状況でするーっと来るものだから、今は彼女がくるとわたしが「ドクター!」と言い、彼女が「はーい」と手をあげる。楽しい。

4月14日。
半ば絶望しながらも、この日にきっと好転するだろうと思っていた。実際、そうなった。あはは、と思った。
4月14日は父の命日だ。生育歴で家庭に恵まれず、モラっ気のある困ったオヤジだった。くそめんどくさい存在だったし、怒鳴り合いなどよくやった。一時的な絶縁も経験した。
でも、不器用なオヤジはわたしを心の頼りにしていることはよくわかっていた。わたしは。わたしなりにオヤジをちゃんと愛していたよ、だから助けてくれよなと思っていた。

病室から母とメールでやりとりする。母が言った。あなたが父親が動いたと思うならそうかもしれない。ここ数日、なぜか仏壇の灰が拭いても拭いても飛び散っていたよ。おれは助けたぞと言いたいのかしらね。さあわからんね。でも、わたしはずっと感謝して生きると思うよ。

感謝

医師から「人工呼吸器設置の可能性がある」と告げられたのは4月12日。
苦しいから闘病しているわけだが、そんなに状況はヤバかったのかと信じられない気持ちでもあった。

つくづく思うのだが。自宅療養者に「こうなったらヤバいから」の説明が無さすぎる。自宅療養する病気とこっちが思っているからタイミングに気づきにくい。苦しいヤバいのコールにも、決して丁寧に対応されたわけじゃない。むしろ逆の人間もいた、「さっきも私が対応してますけどね」と冷たい声を出した女をたぶんわたしは許すことはないと思う。

4月12日。ここからわたしは死んでもなんとかなる準備のためにむちゃくちゃ動いた。生きているうちにしかできないことは間に合わせるべきだ。メールを、LINEを、メモ帳機能を駆使してどんどん動いた。

LINEを使って、主だった「強い関係の友人」に別れの挨拶を入れていった。
これはもしもわたしが本当に死んだときに。家族が誰とコンタクトをとればいいか、LINEを開けばわかるようにするためだった。
闘病中の友人と、病院からもやり取りしていたという人が、その葬儀の知らせを「役員だか」の連絡網で知らされた。このエピソードの残酷さを、わたしは強く記憶していて、「家族がコンタクトをとるべき相手」をわかりやすくするということは、とても重要だと思ったからだ。

当然のように彼らは動揺し、そしてわたしらしいやり方を尊重した。「あとは祈っといとくれ」。

ネット上のあちこちにも、別れの挨拶も投げていった。

細々としたこの陣地にも旗を立てた。単なる旗くらいの思いではあったが、思いがけずにたくさんの人の愛をいただき、驚きと共に深く感謝している。

LINEのオプチャにいくつか入っている。若い親がたくさん集まるダウン症のオプチャに挨拶を入れた。
「もしもわたしが戻らなかったら。あなたがつらい時にあなた自身を抱きしめて『私だけは味方だから』と自分に囁いて。そうしたら必ずしあわせになれる。じゃね」

BUMP好きなわたしだが、最近別のアーティストにどハマりしており。このアーティストのファンオプチャに参加。配信ライブをリアルタイムで参加したりしていた。もちろん彼らの方が若いのだが、わたしを仲間と認識してくれる愉快な奴らだった。
ここにもわたしは挨拶を入れた。突然消えたら変かなと思ったから。

驚くことに、オプチャ機能のノートに、わたしに対しての応援メッセージ受付所ができあがった。そこまでのわたしに対してのトーク画面のメンションは全てスクショされて画像として貼られていった。
今まで直接対話したことがない参加者も、わたしにメッセージを入れていった。そこには今まで伝えられたことのない、わたしの印象が綴られていた。
これは本当に驚いたし、発信というものは常に印象を残すものなのだと再認識した。
そしてこの仲間たちの作ったノートは、わたしの一生の宝物になった。
また彼らと配信ライブ中に騒ぎたい。

Twitterに新しいフォロー通知があった。知らん人がわたしを応援していた。

それ以外にも。とうにわたしのことなど記憶の彼方だろうという、ネット上の人間関係がわたしを見守っていたことに気づく。

わたしは。なんだか巨大な団扇で生の方向に揺り戻されたらしい。
人間の思いというものは、本当に素晴らしい。

そして。ひたすらに、自分らしくしあわせに歩きたいと思いながら。
折にふれ、好き勝手なことを書き殴るわたしを愛してくれてありがとう。

おれ、死なないぜ!

医療

点滴

娘の主治医に娘の治療説明として「5日間がワンセット」と説明された。
わたしは今は点滴をしていないが、針は抜かれていないので追加の可能性があるのか。

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www.mixonline.jp

飲み薬

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朝食時に飲む。副作用で血糖値が上がるとかで、日に何度か血糖値の計測がある。
コロナに使うステロイドだそうで。ステロイド、かあと思った。
薬を調べていたら、滋賀のサイトがわかりやすかった。

dokonet.jp

アビガン

あの有名どころが出てこない、と思った。1月に入院した友人はアビガンだった。

www3.nhk.or.jp

酸素投与

酸素に加湿し、圧をかけて体に酸素を送る機械。
通常の酸素投与ではだめ、これが必要。

という説明を受けた。

https://www.jsicm.org/meeting/jsicm48/web_ex/company/23_2.pdf

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この病院のコロナ病棟でこれを使っているのはわたしひとりだそうで。機器の扱いや調整にけっこうバタバタした。酸素を加湿するのだが、だんだん管の中に水が溜まる。管の結露が溜まるらしい。
ある程度溜まると、わたしの鼻に水が押し寄せる。「助けてくれ、溺れる」というナースコールを夜中に何度か。いや「溺れる」は言い過ぎ。

コロナ病棟は呼ばれて速攻で駆けつけられるものじゃない。うまく人が動くタイミングでこちらのお願いがいる。
自ずとこちらも機器の扱いに慣れる。
管の音で水が溜まるタイミングがだいたいわかってきたり、水の移動を考えてベッドの頭部分を起こしたり。

やがて機器やさんのアドバイスも入り、よいタイミングで水抜きをスタッフが習得してくれた。

この機器を使う選択が決定し、わたしはベッドから動けなくなった。トイレはベッド脇に置かれたポータブルトイレを使う。紙おむつを購入し、このトイレにセットしてもらう。
17枚入り2千なんぼ、とか2パック目に入っている。寝巻きをレンタルする業者の会計で、後日自宅に請求書が届くそうだ。

ちなみにこうした注文は、看護師に言うのではなく、ベッドから業者に自分で電話をかけるシステムだった。

この機器の助けもあり、危ない状態を脱したわけだが。
4月16日の金曜日に、主治医がこの機器をやめるタイミングについて相談してくる。
現状、パワーは最低。外そうと思うがここから週末。スタッフが手薄になる心配がある。
「週末に向かって新しいことはやめましょう」とわたしが答え、土日も使用は続行。特に問題がなければ4月19日から通常の酸素投与に戻る予定。

家族

点滴と飲み薬。鼻にチューブの酸素投与が入院後すぐの設置で、5日目の4月18日の朝、外れることになった。非常に順調。痰の出る咳をよくしたが、それも落ち着いてきた。

点滴と飲み薬。鼻にチューブの酸素投与のタイミングは、娘より遅かった。医師の話では、夫は高熱が続いていたが、肺のダメージは娘の方が進んでいたとのこと。
夫は高熱が続かなくなったタイミングあたりで鼻にチューブの酸素開始。
4月18日に一度外されたが、酸素数値がきちんと確保できていないそうで、再設置。

息子

娘と夫を入院させた日に発熱。翌日検査を受けられず、4月16日に検査、陽性。
療養データを時間できちんと記録させ、こちらに送らせる。こちらのスタッフにもそれを見せて確認。
息子の発症と自宅療養の情報は、こちらの病院で看護師長レベルで共有されることになり、急変があった場合の早々のピックアップに備える。

現状、絵に描いたような軽症で安心。一人暮らし家事に頑張っているらしい。

ネット環境

入院準備として持ってきたもの。

楽天モバイルルーター

楽天モバイルの一年間無料キャンペーンのモバイルルーター契約を、この一月から開始。来年の1月まで無料で楽天モバイルを利用できる。
モバイルルーターの機器もらえるし、移動のときに使えると思って契約。

まさか入院で役に立つとは思わなかった。病院は楽天基地局エリア。微妙にパートナーエリアの通信局の電波とフラフラ交代しながら、無制限の通信を利用中。

一年間無料は終わったが、同様のキャンペーンはまだ続く。おすすめ。

network.mobile.rakuten.co.jp

基地

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オレンジのコードはナースコールボタン。
充電器の位置を安定させるために、ベッドの高さを少し上げている(電動ベッド)。

楽天モバイルルーターにつないだUSBケーブルは、Lightningと typecと三本セットの、なんかの機器にオマケできたやつ。
接触が不安定になったので、モバイルルーターを固定した。

この不安定な接触がアウトになっても大丈夫。今日、新しいUSBケーブルをゲットした。
この病院は、amazonの利用が可能。ポチっとすれば病室に届く。