リツエアクベバ

satomies’s diary

補聴器

父が亡くなって一ヶ月がたった頃、母が80歳になった。今年の春には84になる。とても元気。そんじょそこらの80代とはちょっと違う。身体能力は確実に70代のものだと思う。無駄な脂肪はついていず、動きも生きる姿勢ももっさりとはしていない。たったか歩き、実に活動的な生活を送っている。お嬢さん育ちで母親という役割にはあまり合わないキャラでやってきたが、興味関心については常に能動的な生き方をしてきたと思う。
50代から近所のジムの平日会員になっている。健康のためのジム通いだったらしいが、同じ頃に同じくらいに入った人たちがみな高齢化。父のように死んでしまった人は死んでしまったらしいが、元気な人は元気に残っており、お達者老人クラブ的な場にはなっているらしい。母がiPadを使うようになったのは、そのジムの、ばーさんたちに人気のあるインストラクターがしきりにすすめたからってのが発端。実際、母がiPadを使いこなしてくれるのはわたしと姉にとっては非常にありがたいことばかりで、ばーさんたちのアイドルには非常に感謝をしている。
その母が。だんだん耳が遠くなってきた。二年くらい前に薄々程度だったのが、最近はかなり誤魔化しができなくなっている。文脈理解で聞こえたふりができる部分と、本当に聞こえない部分と、話していてもかなりわかるようになってきた。そこそこ気にはしているようなので、「え?」という聞き返しにあんまり反応せずに「え?」と言われたら単純に声の高さや音量を調整する。電話での会話は反応が少し鈍くなると相手にわからないようなタイミングで、受話器の受信器部分に手のひらで筒を作る。「え?」がなくなるのでとりあえず集音にはなっているらしい。
ふーん、と思うのは。聞こえなくなってくることを認めたがってないことだ。ジムの仲間が一人、ジムをやめると言ったと。その理由というのが、耳が遠くなってきて、インストラクターの話やら仲間の話やらが聞こえにくくなってきていてつらいということだそうだ。それをそのばーさんが口にしたら、あらあたしだって聞こえない、とか、なんかそんな打ち明けごっこで盛り上がったという話を本当にうれしそうに話す。みんなが聞こえなくなってきてるのはうれしいし、ほっとするらしい。
聞こえにくいというのならば。世の中は便利な器具がたくさんあるではないか、と思う。簡易版の安い補聴器を田舎の親戚にすすめられたとかで持ってはいる。試しに使わせてもらったが、ほうこんな器具がこんな値段であるのかそうかと思った。しかし使わない。まあ実際あれは、高齢者一般に不人気なものではあるらしい。
金額張るが、世の中にはもっと性能の良い機械があるではないか、と思う。わたしが機械好きだからか、わたしはものすごく興味がある。どんな風に簡易版と違うのか。加齢により聴力はどんな風に落ちていて、どんな風な能力支援ができるものか、とても興味がある。しかし母は全く興味が無いらしい。あの人もこの人もそんなものはいらないって言う。あのね、なんとかさんが何十万出して作ったんですって、でもいらないって。そんな話ばかりうれしそうに言う。
わたしはたいがいの人が老眼になる頃、遠くが見えなくなった。結局のところ、今は近くも遠くも視力が落ちた。免許更新のときに裸眼で検査がギリギリやばいくらいの視力で、運転時にはメガネを使っている。乱視と近視。老眼はたいして進んでいず、ふつうの老眼鏡だと一番軽いヤツがいるかいらんか程度だけど、近くを見るのにも乱視が悪さをしている感じ。メガネはあれこれいっぱいもってる。しかし、かけたい時にしかかけない。めんどくさいから。要は欲しかったからあれこれ作ったが、欲しかったから欲しかっただけで、常時使用とはいえない状況。その状況で母に補聴器とか実は勝手なものだと思う。
ただし、わたしは補聴器にとても興味がある。加齢による聴力低下がどんな風なものなのか、どんな風に機械がカバーするのかとても興味がある。自分が年取ったら絶対に自分の体で試してみたい。しかしそこまで生きていられるかが、実は課題。