リツエアクベバ

satomies’s diary

嵐と折り紙とさよならと

娘の作業所の利用者さんの一人が亡くなった。娘より5歳だか6歳だか上の男の子だった。懐っこく笑う明るい青年だった。心臓病だったそうだ。先天性ではない、数年前に拡張型心筋症を発症したのだそうだ。
「通夜告別式に出席される方は平服で」と連絡があった。ご両親の希望で「喪服は着ないで欲しい」とのことだった。この青年を忍んで「明るく送りたい」というご意向だということだった。
なんか、わかる、と思った。娘が赤ん坊の時に、先天性の心疾患と重い肺炎とで命の危険がちらちらしていた頃。この子は死ぬのだろうか、この子を送ることになるのだろうか、と思ったときに。イヤだと思った。この子の「生」がまだ始まっていない時に、この子の「生」を知らない人ともっともらしく手を合わせてだのなんだのというのがたまらなくイヤだった。そんな気持ちを思い出して、これは「彼の『生』を実感して送りたい」みたいなことなんだろうなと思った。
行こう、と思った。わたしは彼の笑顔が好きだった。彼を知っていると思った。彼が生きていたことをちゃんと知っている、と思った。送りに行こう、と思った。「ちぃちゃん、今日は○○くんにさよならの会、行こうね」と娘に言った。
このお通夜の日、娘は作業所を休んでいた。台風が4つ来てたから。朝から嵐だったから。だから作業所を休んだ。でも、行くんだ、絶対行くんだ、と、娘の分とわたしの分とレインシューズを出してレインコートを準備した。午後もまだ嵐だった。車で行っても駐車場から会場までのそこからそこまでくらいのところでもずぶ濡れになりそうな日だった。
ざばざばざばざば、と降る雨。じゃっじゃかじゃっじゃか動くワイパー。わたしたちは会場に一番乗りだった。おかあさまが娘が一緒のことをとても喜んでくれた。そうだ、娘は彼の「社会」の人間だ。と、改めて思った。棺にたくさんの折り紙が飾ってあった。「わたしも折りたい」と言うとおかあさまが「折って折って」と折り紙をたくさん出してくれた。わたしは。なんだか無心に折り始めた。娘もせっせせっせと折り続け、そして折った鶴だのセミだのに自分の名前を書いていった。
嵐が少し落ち着いた頃、会場には次々にたくさんの人が訪れた。会場には彼のアルバムや彼を思うものがたくさん展示されていた。いらしたたくさんの人と、おとうさまとおかあさまは笑顔で挨拶し、みんなでずっと彼の話をし続けた夜だった。祭壇はあったが読経の時間もなく僧侶もいず、ただお別れの会としての夜だった。
おかあさまに「明日も来てもいい?」と聞いた。「来てね来てね」とおかあさまが答えた。わたしの服の袖を引っ張って「同じ服、着てきてね」と言った。要するに明日も喪服はやめてくれということなんだなと理解した。でも同じ服はイヤだなあと思ったが、それは言うことではないのでにこにこしながら「わかったー」と言った。いや、いくら喪服避けるのでもさすがに告別式にジーンズとレインシューズはわたしがイヤだ。明日は嵐じゃないんだもの。
告別式は、僧侶がいらしてそこそこ普通に告別式だった。お通夜は喪服じゃなかったご両親もごきょうだいも、さすがにこの日は喪服だった。わたしも娘も昨夜よりはちゃんとした服を着ていった。周囲も迷いながら黒を避け、紺とかグレーとかが多かった。ご両親はこの日もやっぱり笑顔で迎えてくれた。
参列者がお焼香のときに。たくさん出席している利用者さんが焼香の列に並んだ。3つ並んだ焼香台で斎場の方がひとりひとりに丁寧に焼香を教え、支援をした。とても丁寧で、スタッフの方の「いいお仕事」を見せてもらっている気がした。娘は「アタシはちゃんと知ってるから」的ツッパリ態度でおかしかった。一人できちんと焼香を終えた。それは姑や父が逝くことで娘に教えたことだ。
告別式の最後の喪主挨拶のときに。おとうさまがご挨拶をされながらボフッと咳き込むような声を出し、むせび泣かれた。たまらなかった。さみしかった。あれから日が過ぎ、49日もとうに終わった。会いたいなあ。彼にも、彼のおかあさまにもおとうさまにも。さみしいなあ。