リツエアクベバ

satomies’s diary

ママ、おばちゃん、おばーちゃん

子どもを育てるのに3歳までくらいって、なんであんなになんか必死になるんだろうか。と、通りすぎて思う。子どもはこうしなきゃこうしつけなきゃこういう風に教育しなきゃ、とか、そういうこと。回り道ができない。回り道をちょっとでもした途端に、間違った道を進むみたいな捉え方になりかねない。幼児教育関連の格好の餌食になりやすい。
こういう時に、「いやいやそんな固く考えなくてもだいじょうぶよ」って、肩とんとんってのにふわっと癒されたりもする。しかし。
この「肩とんとん」被受容適齢期、みたいなものがあるんだろうな、と思う。新米ママにとって一番いい相手ってのは多分「数年前の新米ママ」。共感されて道を見せてもらうという道が自然に開けやすい。その被受容適齢期ってのは、ギリ「理解ありそなオバチャン」?ってとこかな、と。おばーちゃんだとハナから相手にされなさそうで難しいよね。と、思う。
いや、人んちの「日記」で、幼児の食事のしつけをこぼす、みたいな話を読んで思った。集団に入る前くらいの子どもの食事のしつけってのは、めんどくさい時はかなりめんどくさい。それは親と子のスイッチが食い違ってて、相互に自分のスイッチに合わせようとするから。親はきっちり「食事の行儀の教育」をしたい。普通の大人として行儀の悪い子どもを社会でゴマンと見る経験は誰にだってある。あんな風にはしたくない、あんな親にはなりたくない。この刷り込みはたいていの人にしっかり入っているものだと思う。そして目の前に食事の行儀が悪い子どもがいれば、さあ本番だ、自分はしっかりしなくちゃちゃんとしなきゃと肩に力は入ってしまう。
社会を知らない幼児は、食事の行儀と自己主張の学習との優先順位なんてつけられない。その時のボクやアタシによってその優先順位はつけられてしまう。ちがいます!言うことをききなさあい!優先順位はお行儀です!ってママからファイトを仕掛けられると、自己主張鍛錬のゴングが鳴ったと勘違いする輩がいるんだ、チビ助どものヤツの中には。
そういうときにはさ、その場だけの力じゃなくて、次のステージに移すことはできるんだ、大人はね。次の機会にヤツの自己主張のスイッチが入る前に仕掛けられることを考えることはできる、そこ大人の特権。
そして。ヤツらが社会を覚えた時に、ヤツラが学習した社会と関連させて同じことを教えられる機会はまた来る。「コレは○これは☓」に、「そのまんまだと○○ちゃんにドン引きされる」みたいなスパイスをふりかけるためには、ヤツラのレベルもまた関係してくるというものよ、と思う。
子どもたちがすっかり大きくなって。折りにふれて思い出すこと。確か上が小学生、下が幼稚園の時のこと。幼稚園の行事にママたちが集まってなんだかんだとおしゃべりしながら準備してた。その時一人のママが言ったこと「さわって抱いて、ヤツラが手の中にいるのもあと10年もありゃしない」って。わあ、って思った。わあホントだ、って思った。あの時気づいてよかったなあと今までに何度思ったかわかりゃしない。今はさわれる、さわれるうちに何ができるか、とか思った。短期決戦はやめて長期決戦でいかなきゃな、と思った。その長期だってたった10年くらいで終わってしまう。
でもアレ、仲間内から出てきた言葉だったからすんなり入ったんだと思う。ギリ「理解ありそなオバチャン」でも、まあいかにも的なセリフ過ぎて、絶対右から左に流したと思う。こんなばーちゃんみたいなセリフがよくまあ「小学生と幼児の母親」から出てきたもんだとも思う(うちと第一子第二子ともに同じ学年)。アンタのあの一言をいろんな機会に何度思い出したかしれやしないと下が中学を卒業した時に言ったら、本人は何にも覚えてなかったという意外な結末。なんだ、単なるババアの受け売りかよ。いや、もらい得。