リツエアクベバ

satomies’s diary

私の中のあなた

映画「私の中のあなた」の原作の翻訳本のタイトルは二種ある。翻訳者も中身も同じ。最初に出版された本は「わたしのなかのあなた」と全てひらがなで、文庫化された時に「私の中のあなた」と漢字使用に改題されている。

わたしのなかのあなた (Hayakawa Novels)     私の中のあなた 上 (ハヤカワ文庫NV) 私の中のあなた 下 (ハヤカワ文庫NV)

さて。

2010年12月2日更新分「私の中のあなた」
「私のなかのあなた」という映画は、映画自体はおもしろかった。でも、どうしても納得がいかないというか、なんとも言えない感覚が残る。
検索をかけて映画情報や感想をだどっていくと、その、納得がいかない部分に、どうやら「原作と脚色された映画の脚本との違い」が関係しているようだと思う。これは原作を読まないとどうしても終わらないんではないか、と思った。

原作を読んだ。ふむ、なるほど。原作を読み終えて映画に関して思うことは、「売れる商品を作るということはこういうことか」ということ。要点を逃さずに簡潔にまとめ、映像として人の心をつかむシーンをちりばめる。売れる商品として成功していると思う。
ただし。この映画を観ただけではジョディ・ピコーの「私の中のあなた」は語れない。こういうベストセラーになった小説があったということを知る手がかりにはなるかもしれない、という程度だと思う。
翻訳者は「私の中のあなた」という邦題にとてもこだわりを持っていることが文庫版のあとがきに記載されてた。その文章によると単行本のあとがきにも、このタイトルへの思いを込めた一説を入れたという話が出てくる。原題は「My Sister's Keeper」。最初の出版の時に「わたしのなかのあなた」と全てひらがな表記にしたことも、かなりこだわった上でのことではないかと推測される。文庫版は映画公開に合わせての出版だったようで、映画の邦題に引っ張られての漢字使用「私の中のあなた」化だったのだろうか、どうなんだろうとも思う。わたし自身はひらがな表記の方が、この本の内容から言ってしっくりくるように思った。
映画と小説の最大の違いは、アナにはママがいたということだったと思う。映画のアナには「ママ」はいない。サラはケイトのママで、アナはサラの人生の付き添いという感じ、ママとの関係性においても。でも、小説にはアナの「ママ」はいるんだよね。正しいママか慈愛あふれるママか満点ママか失格ママかとか、そういうことじゃない。「いる」か「いない」か。この違いは大きい。小説は登場人物が一人称をもって語っていく構成になっている。そのサラの章の文章の中にこんな一節がある。こんなところからも、アナの「ママ」が顔をのぞかせていると思う。

「つまり、あなたはだれかを思い出させるってことなの」。アナは片肘をついて上体を起こす。「だれを?」。「このわたしを」とわたしは答える。

(文庫版「私の中のあなた」/『サラ 現在』より〔p.254])

それと。映画館で観るのにちょうどいい時間のドラマにするためにぶった切ってしまったもののひとつに、アナの依頼する弁護士の恋物語がある。この恋物語はこの作品の構成上非常に重要な意味がある。言やーいいのに隠し続ける、真実を紐解くために必要なひとつの事実を。隠し続けるのは誰のためか、自分のためか相手のためか。誰かを「生かす」ということとか。「生かす」ことの裏側には「殺す」ことがあることとか。
この小説の中でとても好きなところ。映画には登場しない「アナの訴訟後見人/ジュリア」の章。

アナはトイレの壁にもたれかけて腕組みをする。「だれが死んで、あなたを孔子にしたわけ?」 顔をそむけると、手を伸ばしてナップザックを取ってくれる。「これ好きよ。いろんな色がいっぱい使われてて」
わたしはナップザックを受け取って肩に滑らせる。「南アフリカにいたとき、おばあさんたちがそういうのを織っているところを観たの。この模様を織るのに糸巻き20個ぶんの糸が必要なのよ」
「真実ってそういうものよね」とアナが言う。それとも彼女が言ったような気がしただけだろうか。彼女はもう出ていったあとだ。

(文庫版「私の中のあなた」/『ジュリア』より〔p.273])

真実ってそういうものよね。この長編を読み終えるまでにあっちの縦糸こっちの横糸に引っ張られた。再読再再読でまた、人の心が見えてくるだろうか。大切な二冊としての位置を獲得。映画は…、もういいや。