リツエアクベバ

satomies’s diary

ポケモン映画

 昨日、ポケモン映画「ポケモンレンジャーと蒼海の王子マナフィ」を観に行きました。ポケモン映画を観るのは、これももう夏休みの恒例行事。いつもと違うのは前売り券買わなかったこと。ポケモン商戦、総合的にすげ〜よな、と思うことは映画の前売り券に映画に出てくる新ポケモンをゲームソフトに入れる「権利」付けて売ること。今回は、それに関わるソフトを息子が買わなかったので前売り券を買う必要が無かった。
 映画は全席指定席の映画館でいつも観る。その際に席をインターネットで予約できる。しかしなあ、前売り券で買うとそれができず、劇場へ行って席を確保しなきゃならなくて、とても手間。混んでるからすっごく早く行かなきゃならないし。そして、まーいいんだけどね、いーんだけど、前売り券で買うと「障害者・介助者割引」というものがきかない。え?いいの?いいの?前売り券買わなくて。やった〜〜〜、という事前の母。
 ポケモンって、その総合商戦の主としたターゲットの年齢層は幼児から小学校低学年中学年くらいまでだと思う。実際息子の周囲ではポケモンがどうだっていう子は確実に減ってきてる。息子も大好きないっこ上の従姉に「いまだにポケモンだなんだってのはガキだ」と言われて迷っていたようだけれど、それでもやっぱり抜けられないらしい。
 息子のポケモン狂いの産物、それは娘に対しての影響。ゲームはやらなくてもテレビやビデオ、映画だのっていう映像で娘には刷り込まれる。ポケモンキャラって色がきれいなのよね、そして見かけでキャラがわかりやすい。それからキャラ名にちっちゃい子が発音しやすい音が多い。ボキャブラリーがあんまり無い娘にも、主だったポケモン名が覚えやすい。幼児対象の絵本だのぬりえだのぬいぐるみだのキーホルダーだの商品がいっぱいあって、ターゲット層もそれなりに多岐で、娘の知的レベルでも存分に楽しめるものがたくさんある。
 去年、中2のとき。娘の養護学校での作業学習の選択は「手芸」。その中の一つで「ポケモンキャラをデザインしたビーズで作ったのれん」をたくさん作った。ピカチュー、アチャモミズゴロウキモリチコリータあたりもあったっけかな。おかしかったのは授業参観のとき。娘がビーズに糸を通しながら「アチャモアチャモ」言っていて。つまりその図案を構成するその中の小さな小さな一粒を手にして作業をやりながら、全体像はアチャモになるんだ、ということ、その喜びを訴えているわけで。しかし目の前の教員は「あ〜はいはい」と。「アチャモ」が「アチャモ」のことを言ってるんだってことがわからないんだな、つまりその教員にはポケモンポケモンのひとつでしかなくて、今日はオレンジのポケモン程度の知識しかなかったわけで。だから「アチャモ」が「んちゃちゃ」程度にしか聞こえなかったみたいで。あはは、アチャモ作ってるんだから外人状態なのはどっちだどっちだ、なんておかしさ。
 で、昨日も娘は映画を満喫。新ポケモンが赤ちゃんで、育ちながら「ママが好き」とそしてママとわかりあえるための言葉を覚えていく展開が、ま〜実に娘にはわかりやすかっただろ、と思う。ポケモンの映画って、ストーリーの背景事情を多少複雑にしても、こういう「シーンでわかるネタ」が豊富に仕込んであるから本当にありがたい。
 ただポケモン映画が「ピカチューの夏休み」みたいな短編をつけなくなってからずっとある傾向なんだけれど、一時間半経過のとこくらいで集中力の中だるみが出てくる。これは幼児層にも典型のようで、映画館の中が微妙にざわつき出す。昨日もご多分にもれず。立ったり座ったり、席を離れる幼児が見えたり。後ろの席の子は、「映画観ながらポップコーンを食べたから、今日は夕食後にお菓子を食べちゃダメなのかどうなのか」と、ずっと母親にでかい声で交渉中。ママは「後でね」をくり返すもんだから、交渉が長引く。まあアレは状況を利用しての恐喝のようなモンだから「なんでも食っていいぞ」と母親が言うまでくり返されただろうから、ママに罪無しだと思うな。この辺の時間帯から一気に映像動けばいいんだけど、ちょっとその映像の動きの展開が出遅れたかな、とは思う。
 サトシ頑張りのクライマックスあたりから、息子がちらちらとわたしを見る。やだ、見ないでよ。そうだよ、アンタの推測は正しいよ、かーちゃん泣いちゃったよ。自分が守るべき相手の安全を、相手を騙すようにして確保してから果敢に立ち向かっていくなんて、なんかさ、アクション映画のヒーローの王道じゃないか。もう、きゃ==。いやんこの子ガキのくせに、重要なとこちゃんと抑えちゃって、と。まあ、サトシは設定はガキでも大人が作るヒーローだからね。
 ポケモン映画はポケモンと子どもの心のつながり、ってのを重視する構成にいつもなってるけど、その心のつながりができていく展開がお手軽過ぎるとげげっとしらける。わたしにとっては「ジラーチ」の時がいい例。ジラーチとマサトのつながりってのは、偶然性からの発展の展開がどうにもお手軽過ぎてついていけなかった。周囲の母親たちにもこの傾向はあったようで、翌年は「子どもだけで見せて映画館の外で待ってた」なんて話をちらほら聞く。このわたしには顕著だった「母に不評だったジラーチ」評が作り手の耳に入ったのかどうなのか、ジラーチ翌年の「デオキシスと、人間関係に無器用な子どもの心のつながり」、ってのはぐぐっと来るものがあって◎だったと思う。そのつながり、ってのが、登場人物レギュラーメンバーだけに無理やりつなげる必要は無いよ。デオキシスのようにその映画に出演する登場人物との話でいいんだよ、と。そういう教訓(?)ってものは、去年のルカリオんときにも生かされたと思う。
 で、今回は「つながり経験キャラ」が登場人物レギュラーメンバーではあるが、その関係は「ママと赤ちゃん」だからね。発端が偶然でも、レギュラーメンバーに紅一点がいるってことを生かせたのではないかと思う。そしてこれは、ポケモン映画を観る女の子だけではなく、ポケモン映画観たがるガキを連れたママの気持ちをぐぐっともっていったんじゃないか、なんてことは想像する。マナフィを抱くハルカ見てるとうちの二人がちいちゃかった時のことなんて、もうまざまざと思い出しましたしね。
 帰りに売店でお買い物。息子は映画のストーリーをそのまま描いたコミック本、娘はぬりえ。そしてわたしは、わたしは(?)。ゴンベのポシェット買っちゃったよ。だってかわいかったんだもん。ゴンベは一昨年の映画で出てきたキャラで、トレンディなはずがなく、どっちかといえばお買い物としては「今さらキャラ」のような気がしないでもない。
 でもかわいかったんだもん。それに娘に「これなに?」って聞くと「ごんべ」って言う。その言い方がまた、なんともかわいくてたまらん。そのかわいさってのは、いわゆるいかにもって感じのアニメ声優が「ごんべ」とかわいらしく言う言い方とは雲泥の差で、だからなんだよ感をものすごく伴うぶっきらぼうな言い方で言葉を投げ放つ言い方をする「ごんべ」。これがな。かわいいんだよな。う〜ん、マニアック。だって、好きなんだも〜〜ん。
 買ってすぐに取り出して、紐をまとめた紙をびりびりと破き、堂々と下げる。「いい年をして」は禁句。わたしのコンセプトはアンチエイジングだから、そこんとこよろしく。ポシェットだから。使うモンだから。だから使ってやるぞ、ざまあみろ(何に?)。