リツエアクベバ

satomies’s diary

私の中のあなた

私の中のあなた
アナ、11歳。白血病の姉・ケイトを救うために、ドナーとして“創られて”生まれてきた。ケイトに生きて欲しい―その想いは、家族みんな同じだと疑わなかった母・サラは、ある日信じられない知らせを受ける。「もう、姉のために手術を受けるのは嫌。自分の体は、自分で守りたい」とアナが両親を訴えたのだ。病気と闘いながらも幸せだった家族に訪れた、突然の出来事。いったい何故、アナは突然大好きな姉を救うことをやめる決意をしたのか?その決断の裏には、驚くべき真実が隠されていた―。(アマゾンの商品説明文より引用)

私の中のあなた [DVD]「私のなかのあなた」という映画は、映画自体はおもしろかった。でも、どうしても納得がいかないというか、なんとも言えない感覚が残る。
検索をかけて映画情報や感想をだどっていくと、その、納得がいかない部分に、どうやら「原作と脚色された映画の脚本との違い」が関係しているようだと思う。これは原作を読まないとどうしても終わらないんではないか、と思った。
原作を注文、手にして読む前に、その納得いかない部分の一端を書き留めておこうと思う。なんつーか、なんとも納得がいかないというか、どこかでぶすぶすと憤懣やるかたないとこがあるんだ。
それは。こんな題材をもってしても、きょうだい児は主役にはなり得ないという感が、ざらざらと残ったということ。アナが訴訟を起こしたその理由が明らかにされた時点で、アナ自身のsavior siblingとしての気持ちが曖昧になる。映画の冒頭にこのことをもってきていたり、主張するときに強い表情を見せたりもするのに、そのきっかけというカラクリが見えた途端に全部ケイトにもっていかれてしまっている感じ。それでいいの?本当に。あなた自身のリアルな思いにまた目をふさいでしまっていいの?と、思うんだ。
この映画で、誰もが心をどかんともっていかれてたまらなくなるシーンの一つに「バスがどうたら」というシーンがあると思う。終盤のね、ママとケイトと2人になった時のあの「バスがどうたら」というシーン。微笑む病児の娘はこの時とても美しい。この時の母親の嗚咽は、観ている人間の心をわしづかみにしてもっていくし、娘が母を抱く映像もたまらない。わたしもこのシーンでは、うわっと、ぐわっと、心を感情を涙腺を、まともにわしづかみにしてもっていかれた。
でも。ざらざらとした感触もあるんだ。アレね、あの抱擁。観客は気づくのだろうか。あの「バスがどうたら」のシーンの抱き方と抱かれ方は、アナとサラの親子には絶対できないだろうな、という抱擁だということを。そしてそここそが、savior siblingという立場をもって生まれてくる子どもがもたされているカードだということだと思う。
わたしは。映画の中のシーンで、「アナが病気をしたときの回想シーン」とか入れて欲しかった。母がアナの健康を純粋に心配するのか、「ケイトのための生きたパーツ養成工場の状態」に目をやる表情を見せるのか、非常に興味がある。そしてこの設定の場合、後者に傾くのが自然なのではないか、とも思う。
しかしまあ、そんなシーンがあったならば、この映画はもっと厳しくキツい映画になっただろうと思う。泣ける映画、感動の家族愛とかなんとかという感想コメントも激減したかもしれない。
でもそもそも、savior siblingという存在を生む選択をした時点で、甘えんじゃないよ、とは思う。この役割を持たされて生を受けたという運命をもつ子どもに焦点をあてるのなら、家族愛という感動に逃げんじゃないよ、とも思う。原作ではアナは作者の手によって殺されるらしい。キツい展開だとは思うけれど、早く読みたい。