リツエアクベバ

satomies’s diary

「アルジャーノンに花束を」を、読んだんだ

アルジャーノンに花束を

2月22日更新分の続き。この作品についてウィキペディアに詳細が載ってた。
アルジャーノンに花束を- Wikipedia
この小説に流れるテーマとは別に。一時的に知的障害とは無縁になる主人公チャーリーに明らかになっていくことの中で。やはり出てくるきょうだい児の問題に関心がいく。妹と妹のチャーリーに見せる態度とその存在に絡む養育環境の変化等、チャーリーの知的能力の変化の中で、このきょうだい児という問題の中でチャーリーに「見えていくもの」の変化が興味深い。
父親の見せるチャーリーの障害に対しての受容が暖かい。しかし周囲の支えや理解、特に夫婦の和が無ければこの受容も継続ができない。これもリアルな現実。
また。変化していくチャーリーの前に立ちはだかるのは、変化する前のチャーリーであること。これがわたしにとっては最も強く残ったところだと思う。障害をもつ娘を前にしての療育や教育において、いつも心のどこかにあったこと。娘の成長を望むこととは、娘自身の成長を望むこととは、本人自身とは、みたいなこと。「わたしはわたしなんだ」という娘の声を聞き取りたいと思っていたこと。そんなことを強く思い出していくような感覚。
ウィキペディアの記述ではユースケ・サンタマリア主演のテレビドラマについて書かれていて。「イグアナの娘」のスタッフというのが興味深い。また、わたしはこのドラマは見なかったので、「結末−主人公の行く末も原作より大きく変更されている」という一文に興味をもつ。
ちょっと探したら、あった。見ることができちゃったよ、このドラマの最終回。

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ほう、というか、ふーんというか。チャーリーの経験を「夢オチ」にしちゃってるのにびっくりというか。それとなんつーか、なんかシアワセ感の押し売りみたいな感じがした。こんなへらへら笑ったような結末にもっていくために「アルジャーノンに花束を」って作品は書かれたのではないよな、と思う。
しかしというかなんというか。知的障害者の演技というものはそんなにも難しいものなんだろうか、と、妙なへらへらとしたトロくさい「知的障害者役」を見るたびに思う。
わたしの中ではピカ一なのは、やっぱり映画「学校II」の吉岡秀隆。へらへらした「明るい知的障害者」的キャラではないからそういう逃げ方ができないのかもしれない。でもだからといって紋切り型のような知的障害者っぽい演技をするわけじゃない。ひたすらすごいと思うのは知的障害をもつ「人間」になっているところ。
映画のシーンの中で(なんでこんな簡単なことができないんだろう)ということがあり、そこで観客には「知的障害をもつ人間」であることがわかる。観客は彼の味方となって、その「できなさ」にイライラする。イライラしながら悲しくなる。そして、知的障害ということがわかるんだ。周囲の嘲笑に、どうしていいかわからなくなる。
吉岡秀隆の演じた「知的障害者」。一見普通に見える。一見普通に見えるからこその社会的な困難というのは中度軽度の方の親の間でよく聞く「悩み」。中度軽度の人にはそんな感じの人も多く、実際チャーリーも出されるIQでいえば、このくらいのレベルだよなあとも思う。
faintmemoryさんのブックマークコメント、おお、と思う。

フェイント・ブックマーク/2月24日
「アルジャーノン」は邦訳が素晴らしかった。主人公の知能が上がるにつれてどんどん“漢字”が増えていく。

わ、わ、わかる。共感する。ホント、そう思う。日本語という言語文化でどうチャーリーの変化を表していくか。翻訳者に喝采