桜養護学校の6年生の教室。給食の時間だ。わかい三木先生が、手の不自由なぼくに、食事を食べさせながらいった。
「こんどの日曜日ね、美雪ちゃんのお兄さんの結婚式?」
(ぼくのお姉さん (偕成社文庫)「ワシントン・ポストマーチ」より)
あらすじ
美雪と「ぼく」は仲良し。お兄さんの結婚式を控えている美雪と、お姉さんの結婚式を控えている「ぼく」。美雪と「ぼく」は、結婚式の話に夢中になっている。美雪は指が開かない手で文字版を操って、「ぼく」はうまく動いてくれない口を開きながら。脳性マヒの二人。
美雪は文字盤を使って「ぼく」に言う、「緊張が強いからオマエは式には出られない」(「ぼく」は緊張が強く不随意運動が頻繁にある)。「ぼく」と美雪はケンカになる。美雪だって口からよだれをたらすから、結婚式になんて行けないぞ。美雪は「ぼく」をなぐり、先生が飛んでくる。美雪はいつまでも泣いている。
週明け、美雪がまた、泣きじゃくっていた。車椅子の上で体をよじって泣き、くずれおちるように車椅子からおりて、床を激しくたたいて泣く。「ぼく」に殴りかかってきて、また泣く。美雪は楽しみにしていた結婚式には出られなかった。
「ぼく」は母に言う、美雪は結婚式には出られなかった。「かわいそうだねえ」という母。でもそこに、親戚のおばさんがやってくる。父親の姉にあたる人。「ぼく」のいない部屋で、「ぼく」を結婚式には出してはいけないという話が始まる。「ぼく」は寝付いた後、家族が言い争う声で目が覚める。「ぼく」は親戚中の恥で、結婚式には出席してはいけないのだそうだ。父や母や姉が怒りで声を震わせながら、それでも親戚や世間に揺れてしまう。美雪もそうだったのか…と「ぼく」は思う。
結婚式が近づく日々、母の顔が寝不足でむくんでいる。母の顔を見るのがつらくなっていく「ぼく」は、母に言ってしまう「結婚式、やめようかな」。母はアンタがいやなら出なくていいと答え、「ぼく」はその返答にがっくりくる。
結婚式の前日、姉の夫になる俊二さんがやってくる。俊二さんは入って来るなり、「ぼく」に「明日の結婚式は出てくれるんだろ?」と言う。そして家族の前で「弟の君がいなくては話にならない、特別席も用意してある」と言ってガハハと笑う。父と母には、「ぼく」のことで悩む話をもってきた伯母さんにも改めて挨拶に行ってきた、こちらの親族親戚はだいじょうぶ、何も心配はいらないと快活に笑う。結婚前夜の姉がウエディングドレスを着て見せて、家族たちは幸せに包まれる。
月曜日、「ぼく」は学校で美雪の顔を見て、「結婚式には行かなかった」と嘘をついてしまう。美雪は「ぼく」の体を乱暴に、でも親愛をこめてたたく。大口をあけて笑う。
(美雪のバーカ!)と、「ぼく」は心の中で叫ぶ。(美雪、しっかりしろよ。おれたちがしっかりしなきゃだめなんだぞ!)。声にならない声で叫びながら、涙が出そうになりながら、「ぼく」はあわてて心の中で「ワシントンポスト・マーチ」を大声で歌い出す。
「俊二さん」かもなあ
はてなの匿名ダイアリーで、「結婚式」がなんかすごい話題になってるみたいなことに気づく。いろいろな観点でいろいろな人がいろいろなことを意見として述べていて、ふむふむとか思う。(ああ、この人は「俊二さん」なのかもしれないなあ)とか思う。「俊二さん」の力をもっていることが、逆にこの人を苦しめているのかもしれない、とも思った。シチュエーション次第では、人の持っている力が自分自身をも苦しめる時があるのかもしれない。
いろいろな理由で他者を選別して排除しようとする人はいる
それは積極的にというだけではなく、消極的にという空気を作る場合もある。排除自体にしても、重要な排除から「この程度でしょ」というレベルの排除もあるだろうとも思う。誰もが眉をひそめるような排除もあれば、これは致し方ないという排除自体も存在するだろうな、とも思う。
赤ん坊のように泣かないし、儀式の途中でおかしなことをするわけではないけれど、娘は「婚」でも「葬」でもご遠慮願われたケースというものがある。特に悲しみというほどのものは起きなかった。人には人の理由というものがあり、誰かにとって「重」となることが、誰かにとってはそうではないと、それだけのことのようにも思う。
まあ儀式というものは、それを主催する人間の価値観で構築されるものなのだしね。そしてわたしにとっての娘自身の価値とは全く関係ない。まあ本当に娘が出たい儀式だったら、それはそれなりに頑張るとは思うけどね。娘にとっての曾祖母の「葬」には出席させたいとは思ったけれど、でも人の排除の視線の中に連れて行くということの前で、全くと言っていいほど気持ちは動かなかったな。