およそ大半の物事や出来事にはその構造というものがあり、どこを見ているかというときにその構造自体を認識しようとしているかどうかということは、けっこう重要なことなのではないかと思う。
いや、重要なことなのではないか、というよりも、はっきりきっぱり言ってしまえば、わたしにとって重要なのではないかと思う。
なぜ重要なのか。どこか何かに騙されたくないから、と言ってしまうのは言い過ぎなのか。
わかっていること、わかると思っていることなんぞは、およそ全ての大半のことの中ではほんの一握りのことでしかないし、わかっていると思っていたことが、ある日ふと別の側面から見たときに(なんだちっともわかってないじゃん…)なんてのはよくあることなんではないかと思う。いや、そういうことは特に驚くほどのことではないかもしれない。だっていっぱいあるよね、そういうこと。
こう見える、こう思う。それは東側から見ていることでもしかしたら西側から見るには別の視点が必要なんではないか。いやー、なんかそういうことの繰り返しはたくさんあるようにも思う。
最近増えてきたお笑い番組を息子が好み、なんだかんだといっしょに見ることが増えた。こうした番組を見ていると。なるほどこうしたことはこうやってそっち側からとらえてそういう風に再現してみると、なんだ笑ってしまうじゃないか、みたいなことの構造がまた見えたりする。そういう風な切り口でとらえられるということに感嘆させられるような人が、こうしたお笑い番組の中で「たまに」いる。あははあははと笑いながら、でも(くっそー、そういう風にとらえられる視点を持ってることがちょい嫉妬)なんてこともあるわけだ。
見えるものはそれは見えるのではなくて、実は見えていると思っているだけで、本当は見えていない側面があって物事や出来事の構造というものはできているのではないか。
なんてことを思いながら、目の前に見えることに関してニオイが気になるものに関して、いただきますとばかりにナイフとフォークで分解していく。そういうときに検索エンジンはお友達として手を貸してくれる。ねえねえと検索窓に思いつく言葉を放り込んでいくと、ほいほいこれなんていかがですかねとばかりにどさっと雑多にいろんなことを見せてくれる。その雑多なものは雑多なだけに多面体となって現れてきたりする。とてもおもしろい。