リツエアクベバ

satomies’s diary

9月27日

web

 steel-blueさんとこの過去記事をずずーっとさかのぼって閲覧。さかのぼればさかのぼるほど、いわゆる自分探しのような文章が顔を出す。自分探しと自分の中の障害研究のような。

発達障害ってなんだろう。/発達障害メモ
こうやって、できたりできなかったりする。わかりにくい。定型の友人は、感情の波はあるけれど、スキルの波は大きくはないように見える。
この「あるときはできるけれど、あるときはできない」という点が、周りの人たちを混乱させているように思う。

 こ〜れはすごい示唆に富むという感じ。脳味噌ってものはすごいもんだなあと思う。機能のバランスをもたせているものだなあと思う。そのバランスがなんらかの形で揺らされていくタイプがあること、それが人間という生き物に時々起きるということなんだろう。
 「あるときはできるけれど、あるときはできない」。これはつらいだろうな、と思う。何がつらいかっていうと「あるときはできない」ときに、その「できない」ことを感情で左右されていると思われかねないつらさなんじゃないかと思いをはせてみたり。自分に対されるコミュニケーションスキルに波が出るってのは、そりゃ「アタシが気に入らんからだ」とか「なんか気を悪くしてるんじゃないか」とか、果ては「怒ってんのか」とか思われたらそれはホントに困るんだろうな、とか。
 電波の波がある場所でのラジオのチューニングみたいだ、とも思う。この位置で聞けてたラジオ、ちょっとラジオの向きを変えただけで入りにくくなる電波か。または携帯のアンテナか。
 体が疲れてるとき、気持ちが疲れてるとき、人と接する力が落ちることはある。でもそこで出てきたマイナスを補うスキルってのがあるのか、あるんだろうな、とか。その線がつながってるのが定型脳なのか、とか。その線が特に考えずにでもつながっていくのが定型脳ってことなのか、とか。よくわからない。
 ただ。他者の行動に対して不可解なことがあっても、それを全て感情で解釈しようとすることを基本線にし過ぎるのは問題なんだろうな、とか。

日常

 午後、地域の障害児の放課後支援に。前回から参加している中学生の男の子のママに「母子分離いけるよ、わたしがついてるから一時間ちょい羽伸ばしてきてください」と言う。高いところに上ったりとか、内線電話のコードをびにょ〜んと伸ばしたりとか、そうやってわたしを部屋の隅から隅まで縦横無尽に呼びつける。構造上上ることを防ぎにくいとこにあっという間によじ登って、天井から釣ったスピーカーを手で動かす。それ以上力を入れて、スピーカーが落ちたら壊れたらどうしようと。でもさっきの反応からすると、わたしが下手に禁止を示す行動を取ると逆にその行動が強化される可能性が高い。どうか壊さんでくれと思いながら耐える、黙って作戦を考えながら。この時間内に「せんせい」として呼んでいる方と目線で会話。全ては後での話し合いの材料。
 「危ないです、危ないです」と言いながら高いところに上って下りて。動きを負う目線が上下上下上下。むやみやたらとあっちこっちに移動しまくる別の男の子の動きが加わって、目が縦横上下、縦横上下、縦横上下。部屋の中央で用意されたプログラム通りに落ち着いた時間を過ごす女の子の集団。障害の特性を越えてこれも男女差なのかも、とも思う。
 母子分離が大前提になりそうな年齢で、こうして娘の活動の場にかーちゃんがうろうろするのは本当はよくない。でもうちの娘はこの活動の時間内では、かーちゃんのことを下働きのオバサンくらいにしか思ってないらしい。エライのは「せんせい」。手はかからんが、(オメーはよ〜)とかかーちゃんとしてちょっと思う。
 他の母親と話し、近くの施設でショートステイデイケアのサービスがあるとこの話になる。申込用紙の提出の後、個別に面接をしてから利用の申込みができる。とりあえず用紙の提出はしてあるんだけどそのままになってて面接の申込みはまだ。「面接だけで300人待ち」と聞いて、なんだそりゃと。多分デイケア希望の幼児からショートステイ希望の大人まで幅広い年齢層の分布なんだろう。300人と言われた日にゃ笑うしかないなあと思う。うちの娘はこうしたサービスの必要性は高くないから、まだまだ面接の申込みはいいやとか思う。本当はそういう経験も重要なのだけれど。まああせらなくてもいいやねとも思う、必要性の高い人の中に割り込むこたあないよね。