リツエアクベバ

satomies’s diary

ふむ、ふむ、ふむ

ふむ、と思うことがあっていろいろな言葉を組み合わせて検索などする。まあいろんな文章が上がってきて、海をかきわけるように読みたいものを捜していく。
おもしろかったのがコレ。

先を読む力/NeverLand Musical Factory

ウチの息子は非常にいい子だと思う。要するになんつーか、純朴な素直ないい子なんだ。計算高いところとか、人よりトクをするために前に出ようとか、誰かにぬきんでて勝ちたいと思うとか、そういうところが薄い。金儲けが上手いとか、そういうところとは逆の位置にいるような子。ケンカや争いも嫌い。人間関係上損をすることも多いが、そうかあ、そういう考え方をするんだね、と、わたし自身が学んじまうこともけっこう多い。
ただ…。どうにも気になるのは、やっぱこの子、「指示待ち」的なんだな。
そういうことを思うのは。この子にとって自分がかーちゃんとしてとか、教育的にどう思うかってことでそう思うんじゃなくて、もっと違うとこから。生活の中でこの子に対して、こう、イラっとしてしまって、「だーかーらー」とかいう非常にイヤな口調になってしまうのはこの手のことが出てくる時。そういうイヤな声、イヤな口調が出てくる自分がすごいイヤだ。とても素直な顔で傷ついた顔をこの子がすると、傷つけたとドキドキする。「ゴメン…」と言いながら、自省に回る。
要は、わたしが自然に彼に要求してしまっていることなんだと思う。「一を聞いたら先を読め」と、そういう要求をしている、し過ぎる傾向から来る「イラっと」なんだと思う。
子どもという存在をもってから特に思うのだけれど。同性二番目の次男次女というものは、生活の中でこうした力を積み重ねて育つ環境をもっているのではないかということ。生活の中で兄や姉を見て、経験の予習を積んでいるようなところがあると思う。流れをどう見るか、そこでどう動くか。同性二番目という立場は親の視線もそうそう降っては来ないので、予習を積み、そして自分自身で経験の実験を重ねるゆとりも、たいした苦もなく与えられているような気もする。つまり、親も誰も気づかないところで、着々と観察と実験をやって育っている要素があるのではないか、と思うということ。
特に意識せずに自分が身につけているところがあるもんだから、この子とある一つの経験を共有したことがあるのならば、次の機会には「コレといったら、ほらアレ」と、そりゃ機敏に動いてるもんじゃないかと、どうしてもわたし自身がそうとらえきってしまっているとこがあるんじゃないかと。そこに息子にとっては「いきなりそこまで?」の応用力を要求してしまっているんではないか。それを堂々とさも当たり前のように息子に押しつけて、こんなことになっちまってるんではないかと。息子が見せる表情を見て、「ゴメン…」と自省に回りまくっているときにそんな風によく思う。
ただオマエさあ。社会に出たら、がつんと言ってくる上司はそんな自省はしてくれまいさ。そしてどんな職種のどんな職場に行ったとしても、社会で要求される力というのはまさにそれなんだよ、と思う。
知的障害をもつとはいえ、手帳の判定上「最重度」という判定が出てるとはいえ、娘にはこの力が備わっている。これがここがおもしろいというかなんというか、知的という能力の複雑なところだと思うし、娘に対して「この子は知的障害児」とレッテルを貼ろうとしてしまうわたしが驚かされ続けてきた大きな要素だとも思う。
ダウン症児・者の特性ということで言えば。聴覚の情報よりも視覚の情報についての方が強いということを聞いたことがある。小さい子の親が誰でも「そうそう」という現象で言えば、歌は歌えなくても歌詞が覚えられなくても、小さい子の歌遊び手遊びを覚えてしまうのがとても早い。その発達の支援に関して、モデル行動から学習する力に期待できるところも大きい。よくある「普通の子の中で」という要素が就学先選択にも大きくからんでくるところがあるのは、障害受容に問題がうんぬんとかいうことではなくて、この「モデル行動から学習する力」に期待をしてでのことも要素としては大きい。
娘を見てて思うのは。とにかく周囲に対しての観察、その集中度の高さだと思う。観察を重ねて、ある日その観察の集大成を見せてくる。驚かされる。知的障害があるためにわからないという、その上での行動ももちろんあるし、知的障害があるために不足している理解力のためにできないことも多いけれど。それでも基本的なところで「一を知ったら十の行動」につながっていく基本的な力を備えていると思う。
些細な例を挙げれば。幼児期にこの子らを連れてスーパーではぐれたというケースの時に。何ひとつ具体的に指示したことも無いのに、娘はレジの側でおとなしく待ってた。レジは「最後に人が行くところ」。つまり、母親が行く可能性が高いところを考えて自分で決めて、そして慌てもしない。こうした類のことは息子には見られなかった。
生活の中での育ちの違いで言えば。娘は歩き始めたくらいの時期から、様々なことに対して常に実験と練習を積み重ねてた。何をしたらこうなるか、何をどうすれば自分でできるか。どの時点で相手にヘルプを求めるか。そうしたことを自分でやっていたので、彼女の進む進みたい線は見ていればわかったし、だから彼女の意志に「従えばよかった」。
息子にも驚かされることはある。自分の利のために「一を聞いて先を読んで行動する」ことは、この子には難しい。ただ。この子は「人の気持ちのため」に「一を聞いて先を読んで行動する」ことが多々ある。そこに自分の損が加わることがあったとしても、それは優先されない。
知的障害がある子をもつと、自分が先に死んでいくことを想定した育て方をするところはあると思う。少なくともわたしはそうだ。何をこの子に渡していけるのか。その視点は自ずと息子にも向けられる。アンタはいい子だよ、でも、そのいい子の部分だけでアンタは資本主義社会を生きていけるのかい?
わたし自身が息子にイラっとした顔を向けないためには、それはできることはあると思う、要は懇切丁寧に指示を組み立てて、彼にとって過度な要求をしなければいい。でもそれで本当にいいんだろうか。社会はそんなに親切じゃない。
ヒントは息子には「人の気持ちのために一を聞いて先を読んで行動する」力があるということだ。ここを生かして「先を読んで行動する力」をどう育てていくかということなんだろうと思う。もう15歳、あと数年の勝負だな。