上記エントリから引用しつつ、fuuuuuuunさんとおしゃべり。
「批判」に関して
よく最近の若い親は覚悟がないとか、親たるもの本来かくあるべし的な話を聞くと、なるほどなるほど、でもそう声高に叫ぶことでは少子化は食い止められず、むしろ促進されそうだよな…とか思ったり。それと似たような感想を元記事に持ちました。
うん。なんか怖くてびっくりしちゃったとこはあるなあと。ひとつの場に関して段々わかっていくことってあると思うんだけれど。そしてそれは具体的な面で「そうかあ」ってとこ、多いと思うんだけど、ばんばんばばんって否定的なニュアンスを感じてしまって、なんか怖くてちょっとびっくりしちゃったな、ってとこはあったんだ。
それはもっともなことかもしれないけど、びっくりして引いちゃう。そうするとモチベーションはどこにいっちゃうんだろう、みたいな。そんな程度のモチベーションじゃ認めない、ってとこになるのかなとは思うんだけど、夢もってもいいかなとか。たいがい何かに向かうときって甘っちょろい夢が発端になってて、そして充実させていくとこで最初の姿勢に関して「きゃ、甘かったかも…」なんてことはよくあることだよなあ、とも思うし。
あと私は想像力が貧しいからか、なんでも「やってみないとわからない」的世界観に住んでいるのでそこが違和感としてあるのかも知れない。
ほほほ、相変わらず自己卑下から始まるfuuuuuuunさんだ。「やってみないとわからない」ってのもあるし、「やってみないと本質が理解できない」ってことだってあると思う。すごく単純に言って、思春期に読んだ小説や漫画を大人になってから再読して(ああ、こういうことだったのか)みたいなとこもあると思う。直接的な経験だけじゃなくても、いろんなこと経てみなきゃわからなかったっていう類のことって多いと思う。
だから実際やってみる前に「考え方はこうあるべきである、この本を読め」って。その本がなんか難しそうな本で。きゃって。きゃって思う。わたしは。わたしはこのパターンのアプローチとしては「10代の子」には「はせがわくんきらいや」どう思う?とか、「ギルバート・グレイプ」でお兄ちゃんが弟ぶん殴ったシーンをどう思う?とか、そういう方が好きだな、と思う。
事前に(あるいはほんの少しの体験で)本質を理解するって到底出来ないことなんですね、私には。一緒に歩きながらわかっていくことだらけだと。だから若い人や新人さんに「心がまえがなってない」なんていうのは多少違和感があります。
これはわたしもそうだと思う。自分が若い頃、そして新人さんだったときに、いろいろな場でそういうとこあったと思う。「心がまえがなってない」ってとこで、その「心がまえをわかった気になってる」方がアブナイ気もするんだよね。
ただね。このエントリはこの「10代の子」個人に向かって、というより、x0000000000さんという方がもっている感じている、いろんなジレンマがひとつ集結されたものなんだなあと思う。そう思って読むとかなり興味深いなあとも思うんだ。そこの本質を考えたくなるアプローチをもらえた感はあるなあと思う。高度要求されるとビビっちゃいそうだけど。
「笑顔」に関して
そして、出ました!「障害者の笑顔」!!これ書くと無敵だねぇ。なんというか、こういうのって20世紀初頭の文化人類学じゃないの?「原住民の笑顔に癒されました」とか…。原住民だって生きてりゃ笑うだけじゃなくて、泣いたり怒ったりするだろうよ。「障害者の笑顔」を動機にするということばは、障害者をまさにそういうふうにしか見ていないという「一方的な理解」の上に立ってしか言えないものである。
障害者は介護者を喜ばせなければならないのか/世界、障害、ジェンダー、倫理☆
わたしね、この「笑顔」の扱いに、実はびっくりしちゃったんだ。え?「障害者の笑顔」ってそういうことなの?って。わたしのとらえるこういうパターンの「障害者の笑顔」ってさ、どこか片思いが通じたような、そんな感覚があるんだけどな。
自分の経験してない「障害」を前にするときって、いろんな意味で緊張するよな、って。自分が思うこと言うことやること、もしかしたら傷つけるのかも失礼だと思われるのかも迷惑なのかも、とかどんどん考えそうになることってあると思う。それとさ、初めて会った自閉症の子もそう。コミュニケートがすっと出てこないタイプの障害がある子もそう。わたしのこと、受け入れてくれるかしらって。「障害」という壁が偏見の壁じゃなくて、片思いの壁みたいに感じるときってあると思う。
そんなおずおずとした気持ちになってるときに、にこって、にこってしてもらうと(ああ…)って思う。わたし、入れてくれる?入れてくれる?あなたの世界に入れてくれる?って思う。だからすごいうれしい。「笑顔」ってことじゃないけど、その「片思い感」がきゃ〜って歓声につながっていったのはgooで「ある朝の光景」ってエントリにも書いた。この男の子、ついこの間、下校中にちょっとしたことで軽いパニックを起こしていたときに、わたしを見つけてわたしの名前を呼んだ。クールダウンさせながら、必要としてくれることがものすごくうれしかった。
そういうのって、怒られちゃうことなのかな、ってのは思った。それが怒られちゃうのなら、わたしもこの「10代の子」といっしょにお説教くらわなきゃなあ、って思った。ただ「課題図書」は、なんか難しそうで逃げちゃったけど。
それとうちの娘。ダウン症っていえば人なつっこい、ってすぐ出てくるんだけど。でもね、そういう「人なつっこい」ってのじゃないの。いわゆる「ツンデレ」ってヤツになるのかなあ。いつもなんか威張ってるよ、平然と人を無視したりもする。それがさ、絶妙なタイミングでにこってするの。またよく人のこと見てるもんだから、相手の心情が落ちてるときにす〜っと寄ってってコレやったりする。相手はやられちゃう。
どこの集団入ってもある程度の時期が過ぎると「ちぃちゃん、ちぃちゃん」って一種スター並。でも平然と無視する、威張ってる。それが周囲にとっては「ちぃちゃんの日常」で無視しようが威張ってようが、その人気は全然揺らがない。お、ま、え、やるなあ、とかいつも思う。そういう意味ではコイツの「笑顔」も無敵。
「充実感」や「やる気」だけじゃ困っちゃうこともあると思うよ
私自身まだ現場ってわからないからあれですね。もっと福祉サービスを利用して行くとようやくついていける話になるかな?とか思ったり。
うん。お子さん幼児期だとまだわからないわかりにくいと思う。
たとえばね、思春期あたりの知的障害の男の子のガイドヘルパーをやってくださる人が、いっしょに外出に行ってくださった、と。そこで、その男の子がきれいな女の人を追いかけてしまったとか、髪の毛にさわってしまったとか、まあそういう類の「困ったこと」があったとする。そのことの事後の報告として「先方の女性にこちらの知的障害をじっくり説明してわかってもらいました」って、充実感いっぱいに鼻の穴ふくらませて言われたら、困っちゃうわけ。その人はそのとき一回を「上手に切り抜けました!」充実感になるんだけど、なかなかそのことには気づきにくい。欲しい情報はどんな風に近づいて、どんな風にそれをやめさせて、そして今後同様のことが起きたときにどんな風に「本人に」もっていったらいいか、と。そういう材料になる情報なわけで。そのとき何を見てましたか?ってことになるんだけど、こういうタイプの「わたしは上手に切り抜けました!」的な充実感もたれると「ありがとうございました」以上のことは言えなくなる。
それとかさ。余暇支援で集団参加にうまくもっていきたいときに、ひとり抱え込みをやられると困る。ひとり抱え込みをやられて、本人は自分が担当した子どもとのコミュニケートの充実感でいっぱになってしまっていたり。でも、その場で必要とされていた流れへの促しの視点は無かったよね、なんてこと。それをなかなか言いにくくなる相手ってのは、「充実感いっぱい」の人にはあると思うよ。
なんてちょこっとした、具体的な一例。