リツエアクベバ

satomies’s diary

難しい課題にかじりつく

 はてなブックマークのお気に入りでfuuuuuuunさんがクリップしたものを読む。

fuuuuuuunのclip / 2007年10月19日
私は支援してくれる人はありがたいしありがとうと言うけどな。どんな動機でも

 なになに?と元記事飛んで、う〜〜んと思う。思うけど整理がつかん。ぶつぶつぶつぶつ考え込む。などと思っている間にngmkzさんが言及記事上げをする、反応はえ〜。
 思想がいっぱい行き来してる感じで、滅多なことで発言できないムードだったのが、ちょっと腑に落ちることが出てくる。

だから、「彼女」が書いた文章の中で、支援者はどんな支援や介護やアイデアで彼女がクライアントを満足させたのか?それは単に姿勢か?それともアイデアか?技術か?って考えてみるのがいいんだろうけど、id:x0000000000さんはそこに問題の焦点を当てている訳じゃない。
「福祉」の課題として問題が回帰してきてしまってるじゃん!/かへる日記 (FRGFRG304)

 うん、そうなんだよね。ここなんだよね、引っかかったのは。
 元記事になるこのエントリ。

障害者は介護者を喜ばせなければならないのか/世界、障害、ジェンダー、倫理☆
前の職場から来た手紙に、10代のヘルパーの子が書いた文章が載っていた。

 ここで出てくるこの「文章」の内容よりも、わたしは「前の職場から来た手紙」の方が気になったというか。どんな風な文脈でこの「文章」が出てきたんだろうなと。つまりわたしが引っかかったのは「10代のヘルパーの子」じゃない、手紙の書き手。
 この文章に出てくる「10代のヘルパーの子」。この子の文章でわたしが気になったこと。それは「できなかったこと」「自分が足りないと思ったこと」が書かれてないこと。精神的な充実ばかりが強調されていること。現場の現実はその精神的な充実で済まないことはたくさんあると思う。精神的な充実を前面に押し出されては、サービスの質は上がらないと思う。それが「前の職場から来た手紙」に出てたのか出ていなかったのか。なんて思いで「手紙の書き手の書いた文章」自体が気になったんだ。
 だからわたしがとらえたことというのは。この「10代のヘルパーの子」の文章を、こう思ったこの一人の人間を、その感想をどう扱うか、どう具体的に展開させていくかってことなんだと思う。
 精神的な充実で押してくる人に対して、質の向上の意見や注文は出しにくいと思う。まあがんばってやってくれているから(この程度は目をつぶるか気づいてくれるまで待つか)、なんてとこが実際あるように思う。「笑顔でありがとう」だけを言われているうちは、本当に信頼されているのかどうかは実はわからんとも思うんだよね。支援者には精神性の充実でも、支援を必要としている人の状況はもっと具体的で現実的なものだと思う。支援者に対しても「アンタはこれができないし、ここが足りないが、それでも向上させようとしてやってくれるかね」ってことはあると思う。ただそれは、よっぽど「関わるという覚悟」が相手に見えなければ、「とりあえず『手』の確保として黙っている」ってこともあると思う。「とりあえずの『手』の確保」だって、笑顔で「ありがとう」が出ることはあると思う。それだけだって充分ありがたいことはあるのだしね。
 何かが始まるのはそこからじゃないか、と思う。わたしはこの「10代のヘルパーの子」の文章にふれたならば、「ではあなたの現在の課題はなんだと思う?」と聞くと思う。何かが動き出すのはそこからかな、と思うんだよね。「充実感」がモチベーションとしてあっても、次のステップへの展開を生み出すきっかけは「充実感」より「課題の認識」や「挫折や痛み」の方が大きいとも思うしね。
 支援の小さな受け手としてはfuuuuuuunさんの言うように「私は支援してくれる人はありがたいしありがとうと言うけどな。」ってのはある。あるんだけどそれだけじゃ、「笑顔」「ありがとう」「充実感」ってのをもちながら、でも実は支援の方向性が違う人を前にしたときに困難が出てくる。(そ、そ、その支援は違うぜ?)と。そしてその困難は。どっちが背負うのかってことなんじゃないか、と思うんだよね。
 元エントリのコメント欄に「養護学校での2日間の実習」という話が出てくるんだけど。わたしも行ったことあるんですよね「養護学校での2日間の実習」。横浜市ボランティアセンター主催の「学齢障害児サポートリーダー養成講座」という数ヶ月間の研修で、そのうち4日間が現場実習。2日間は肢体不自由養護の高等部に弁当持参で丸一日参加。小中学部はいわゆる「迷惑になるから」高等部。
 実習後の感想で、いわゆる笑顔がどうの充実感がどうのって人もいたけど、大半は学校での介護の手厚さという感想だった。「教育」ではなく「介護」。わたしは。医療ケアが必要な児童・生徒を全国に先駆けて「訪問教育ではなく通学籍確保で通学中心」をやってきた横浜市の現場。その様々な形態での一対一対応での給食風景や、医ケア児童・生徒に関しての市の正式文書を閲覧させていただいたこと、そういうことが知識としてではなく目の前で繰り広げられてる光景につながっているんだという実体験の「感動」の方が大きかった。それと「教育アプローチの工夫」を実際に目の前にしたこと。「教育」と「介護」、そのどちらの側面に関しても、わずかな一端でも「体験」として残るように工夫もしていただいた。短時間だったけれど、一人で一人の生徒さんに対応させていただく時間さえ作っていただいた。学ばせていただけるありがたさが身にしみた。ちっぽけな自分の課題に関しては、実習後、同じ場所に同じ期間実習をした人と相互の課題を語りまくった。この時いっしょの実習だった人は、かなり先駆けてというタイミングで事業所を立ち上げた人だった。
 のこのこ入り込んだ闖入者が「笑顔」だの「充実」だの感じてる余裕なんてなかったなと思う。学ばせていただいたありがたさの方が大きかった。そして実習後の講義として「学校風景で『手厚さ』を感じたかもしれないが、それは家族にとってはたった一時の平和だ。学校卒業後の現実が山積みであるということ、『手厚さ』を感じるのならばこそ、逆にそのことを知っていかなければならない」という内容。ここから何が必要か、そのことをどうとらえるか、とらえていくのか、と。その姿勢のあり方。
 この現場実習は、実習後の研修があってこそのものだったと思う。だから。この「10代のヘルパーの子」も、この文章のその後の展開が充実して生まれ出すような、そんな具体的なアプローチがあって欲しいと思う。この「10代のヘルパーの子」の文章自体がいいとか悪いとかってことじゃなく、きっかけとして動き出す文字通りの出発点となっていくことのために。