リツエアクベバ

satomies’s diary

勝手に呼称「ああ。」記法

 20日午前。RSSリーダーが登録ブログの最新エントリを表示する。ふふんふんふんと飛ぶ。ページを開く。数行読んでばたっとプラウザを閉じてしまった。だめだ、ここより先は読んではいけない。勝手に手動「続きを読む」記法。全文読みはまだしちゃいけない警告音が自分の中でピーピーと鳴ってしまった。
 自分の今日のスケジュールを頭で確認する、そして午後3時には書店にいた。あのブログに書いてあった本を買わなきゃ。そこで気づく。メモったりなんだりを何もしなかった。売り場に行ってもどこをどうさがしていいのかわからなかった。
 レジに行く。「すみません、『夕凪の街 桜の国』という映画の原作の漫画が欲しいんです」。
 読んだのは、勝手に「続きを読む」記法にしてばたっとプラウザを閉じたのは、chdさんとこ。

夕凪の街 桜の国 /Adminではないけれど [ブログ篇]
先週、映画を観たあと、家に原作があるというので借りて読んでみた。
ああ。
これは素晴らしい漫画だ。
 勝手に「続きを読む」記法にしたのはこの一行の「ああ。」。chdさんとこは確か去年の夏頃にRSS登録をしたんだったかだけれど、わたしのつたない記憶から言えば、この人が一行「ああ。」と入れたのは記憶に無い。この人のこの「ああ。」は、この「ああ。」を確認したいという気持ちをわたしにばんばんに起こさせた。
 期待は裏切らなかった。「ああ。」の意味するところは受け取ったように思う。午後から夕刻までの間、何度も何度も繰り返し読む。
 パソコンを開く。勝手に作った「続きを読む」制限を解除し、全文読む。そうなの、実際に読んでからこの先を読みたかったんだわたしは。
 こういうお話、反戦とか核廃絶とか、そういう簡単な結論にちゃっちゃと行くことではなく、そこに生きた人がどう生きていたのか。そういうことなんじゃないかと思う。薄い本の中の3つの話で、世代を越えて事実や受け取ってしまう感情を見つめ続けるそれぞれの目。
 「夕凪の街」でヒロインが目が見えなくなってから、ヒロインが感じる自分を思う男の手。彼が自分の手を握る経験の二回目の「手」。一度目は自分は生きているということに罪悪感をもつヒロインに「生きとってくれてありがとうな」と言う言葉と共にのその手。そして二度目は。その相互の手の感触がなんかずっと自分の中に残り続ける。このつながれる手は、その後の二編のストーリーで人と世代を越えて確実につながれていくんだな。
 しかしやられちゃいましたよ、意図せず出てきたであろう「ああ。」記法。まいったね。
 広島と言えば。19の頃に広島出身の同い年の男の子に広島風お好み焼き屋に連れていってもらって。東京に来てまだ数ヶ月のこの男の子に、広島出身の人にとってヒロシマって?と非常に安易に聞いて。まあ簡単に言っちゃえば「東京モンにはそう簡単にわからん」みたいな感じで真剣な顔でばさっと怒られました。「簡単に言えば、ちょっと買い物に行く八百屋のおばちゃんにケロイドがあるようなことを見慣れて育つってことだ」、と。そう言われながらそうかあと思い、おとなしくお好み焼きを焼いてもらっていました。