リツエアクベバ

satomies’s diary

あの人キライ

 あの人キライ。あの人がいると心がざわざわする。あの人の言うことや、あの人の笑い方や、あの人のすることが全部イヤに見える。あの人がそばにいなければいいのに。
 隣の人があの人と話す。あの人のことイヤじゃないのかしら。なんで話なんてするんだろう。隣の人があの人と話していると、わたしはただイライラして、ここにいるのがイヤ〜な気持ちになる。
 でもわたしはここにいたいんだもの、あの人がここにいなきゃいいんだわ。そうだ、隣の人もきっとあの人のことが嫌いなはず。我慢してるんだわ。我慢するのやめようよって言ったら、きっと相手にしなくなるわ。あの人なんて誰も相手にしなければいいんだわ。

 ってことなんじゃないの、いわゆるいじめの発端って、と思うのだけど違うのかな。
 まあ、人間、誰もかれも好きなわけでもなく、嫌いな人だっているのが自然なわけで。そこで他の人間の腕を引っ張るかどうかってこと、関係するようにも思う。腕を引っ張って同意が得られて、集団になっていくことで雪だるま式にテンションがあがり、気づいたらもう止められない流れができていく。なんてこともあるんだろ。
 ブログが荒れたときに、相手を攻撃するコメントを入れる人が、同方向の群れを期待したり、時には一人が複数を装ったりすることも、この辺の傾向がからむようにも思う。
 不思議だなあと思うのは、嫌いなら嫌いな人間のそばを離れればいいのに、ということ。ただ、一緒にいなければならない集団の密室性が、こういう集団での攻撃を生む場合があるのかもしれないな、と思う。
 いつも思うこと、嫌いってこと、その嫌いってエネルギーを誰かに持つときって、実は相手に対しての自分の嫉妬が紛れ込んでいるんではないか、と思うこと。
 わたし自身、ああダメだこの人、と思うとき、その相手の中に自分が嫉妬する要素があるんではないかと考える。どこにあるんだろう、きっと何かに嫉妬しているんだ、と思う。そうでなければ消せない不快感は生まれないんじゃないかと。
 わたし個人に限定すれば、まあたいがい傾向としてあるのは、悪意の無い無神経、相手や状況を考えずに依頼心の強い人、こういう部類の人はわたしはダメだと思う。それは、そういうことをやってこれた、ということ、それが許されてきたんだ、ということに嫉妬しているのかもしれないと思う。ちなみに悪意の無い無神経がイヤなのは、悪意が無いという大前提で、全てを相手にゆだねてくること。悪意が無いって前提にされたら、リアクションができなくなる。悪意があるんなら、悪意の存在が生まれたことについて考察できるしね。
 この人ダメだ、と思うタイプの人間と、集団という箱に入らなきゃならなくなるとき。そういうときは、わたしは耐える。じっと耐える。そうじゃなきゃ、相手によって自分が醜くされてしまう、と。自分に起きる不快感、そこで毒をもった言葉を相手に投げてしまうかもしれない可能性。みんなと仲良くしましょう、とか、いい人間でいましょう、とか、そういうことじゃなく、自分の美意識のようなもの、プライドのようなもののためにじっと耐える、というようなとこが近いかな、と思う。
 たまにそうして蓄積してしまったものを吐き出すための「うんこ排出」はしますね。信頼できる友人と、それは「うんこ排出」のための行為だと相互認識できる、そういう信頼ができる相手と。自分の中にたまってしまった汚さを、吐き出すのにお願い、ちょっとつきあってよ、と。それは「うんこ排出」の場面だけに限定し、出してざざーっと流してしまったらちゃんと社会や集団と向き合っていけると、それを守る努力を持つ、持ちたい。
 こういう友人との「うんこ排出」ってのは、結局、考察に入ることができる。相手の欠点の考察ではなく、なぜ自分がそういう感情を持つのか、なぜそうした感情を積んでしまうのか。そんなことに発展して、いつか対象の相手のことを忘れてしまう。
 そうやって、なんとか守る。守るのは自分。相手を攻撃しないためにも、やっぱり必要なのはself-esteem。

*自分が書いたもの:self-esteem関連エントリ