リツエアクベバ

satomies’s diary

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 ってわ〜って思っちゃ驚かすので、そーっと驚く、わお。

お返事/fuuuuuuunの日記

 いやしかしこのエントリ、発達障害を考える情報の宝庫ですね。特に以下のリンク先がすばらしい。「カラ」について、「必要」について、非常に明解に語っていると思う。

感情のカラと認知メソッドの重要性/Double Line

 最近思うことは。自分が関わった集団の中で、もしかしたらアスペルガーの方に出会ってきたのではないかと思うこと。アスペルガーを知識として知っていく中で、(そういえば…)という相手はいたなあと思うこと。
 娘を生んで出会いがあって、アスペルガーの子どもをもつ母親とのつき合いというものはある。でも、それはその子どもと自分の直接的な人間関係ではなく、またそれは違うと思う。
 ボボコフさんのエントリのコメントの「僕も色々読んだ印象では身近にそういう人がいたらきっと仲良くなりそうだとか感じてますし」というもの。わたしは(わたしは自分がどうだかわからない)という反応が自分にはあった。それは避けるということではなく、自分に起きてしまうかもしれないものに対しての自信の無さだと思う。つまり、自分が当たり前だと思っているコミュニケーションの発信やら反応やらというものとズレたものをそこに見てしまった場合、人を見るより自分の感覚の戸惑いの方が先に来るし、そのことの方が自分にとっては大きいと思ってしまうんだろうなと推測する。つまり感覚的なズレがあった場合に、自分に起きる「?」の方が先で、相手はその後になってしまう。これはマジョリティで生きてきたものがやってしまうことなんだろうとも思う。
 相手とつき合いたいと思う魅力を相手に感じる場合、その何度か起きる戸惑いにそのうち慣れる。慣れるから「?」ともどうとも思わなくなり、そうするとマジョリティだのマイノリティだのということから越えられるのだろうかとも思うのだけれどどうなんだろう。自分の人間関係上の(もしかして)と思う相手とは、ずっとつき合い続ける接点がなかったのでよくわからない。
 fuuuuuuunさんに関しては。fuuuuuuunさんがわたしのエントリをいくつか読み、その内に流れるものの存在をすっとつかんでもっていった。その内に流れるものというものをどう扱うかということに相違はあっても、わかった?わかったよという対話になっていたということは大きいと思う。そうした対話が成立していたことは、わたしにはうれしかった。そしてその相手のfuuuuuuunさんの書くブログ。そこにたまたま発達障害があっただけだと思う。そしてたまたまわたしにはかじった程度の知識があったということかもしれない。
 fuuuuuuunさんのいう「通訳」が、わたしにできているのかわたしにはわからない。全部手探り。
 今見えるのは、ごく一般的に言って、発達障害に対して人から得られる理解には距離があるのだということ。自分の29日エントリについたブクマコメントの内容も、これは定型発達脳の人に言えることでそうでない場合は違うのだと思う。後付け理論と出てきているけれど、定型発達脳の人間には「後付け」と思うことでも、そうした定型発達脳の人間にとってのコミュニケーションの部分を分解して提示した方が、発達障害をもつ人にはわかりやすいだろうと思うということ。しかしそれが「後付け」との一言になってしまうのは残念に思うこと。また「相手の語気と表情」の情報収集のリアルタイムでの処理と、その場でのその収集した情報にとって適切な発信が困難な場合があるからこそ、ということが重要で、その前提でとわたしは思って書いていたことなのだと思うこと。そんな思いではてブのコメントを黙って少し呆然と眺めたといった次第。それにどう対していいのか正直わからなくなる。そしてこれがこれこそが、発達障害をもつ人がおかれているものなのではないかとも思う。
 自分自身の理解に関しては。この理解が近くをいくのか的はずれなものなのかは、実は自分ではよくわからない。ただ、自閉症の子どもと知り合い、そして知りたいと思い積み重ねた時間というものが自分には影響しているのかもしれないということ。
 自閉症を知りたいと思ったこと。それは発端になった子どもがいたこと。自閉症だからというよりも、知り合ってうれしかった子どもがいたこと。わたしは一時期この子に夢中になって、そしてとても知りたいと思った様々なことを。
 その子と久々に再会して、うれしくてうれしくてたまらんエントリがコレ。

ある朝の光景

 ちなみにこの子に夢中になった発端というものは。この子と初対面の時点で、この子のあるこだわりから、わたしは強烈にこの子から愛されたこと。そして一人の小さな男の子から思いもかけずに強烈に愛されたことがわたしはとてもうれしかったこと。そんな実に俗っぽいことが発端。そしてこの子が低学年から高学年に進む中で、その強烈な愛情は影を潜めていって、まあ普通のつき合いにはなっていった。だからわたしのことなんぞ、とっくに忘れているだろうと思っていたのが、ってことがこのエントリの日のうれしさにつながっていると思う。
 わたしはこの子が知りたくてさんざん自閉症についての知識をむさぼり食ったので、この子からもらったものは計り知れないほど大きいと思う。