リツエアクベバ

satomies’s diary

子供産んでよかったですか?

子供産んでよかったですか?/琥珀色の戯言

 子どもを生むということ、子どもを持つということ。これを迎える事実としてではなく、想定として考えると、マイナスの要素ばかり浮かび上がってくるのはどうしてだろう。
 わたしもその「マイナスの要素ばかり浮かび上がる」人間の一人だった。なんだかんだと不安要素はいっぱいあったのだけれど、その中でも、映画「普通の人々」を見て、なんだか余計に怖くなる。
 長男の死から次男の生を憎んでいるかのように見える母親。この映画のタイトルが「普通の人々」であることの怖さ。設定が特殊でも、その根底に流れるものは、いつだってどこにだって「あり得る」ことだろう。自分が子どもを持って、一時期その存在全てに責任を負っていかなければならない「人格」と自分とが、生理的感情的にかみあわない「相性」だったら。そんな不安というものは果てしなく大きかった。子どもをもつということは、逃げることのできない人間関係を自らが構築していくことの始まり。親と子、そこでは他者との間に自分の安定のために保つ「距離」というものを、おそらく持ってはいけないだろう人間関係。その「距離」を許されない人間関係というものに、自分は耐えられるのだろうか、と。
 それでも「子どもをもたない」という決断をするほどの勇気(?)意志(?)は持てなかった。決断というより、怖れにびくついている自分、というのが真実の姿、というところだったからだと思う。結婚をし、避妊をし、夫に「自分に決心がつくまで待ってくれ」と頼む。わたしは勝手に、びくついて逃避していい年齢の締切を決め、締切となる年齢の誕生日におおいにびくつく。おおいにびくつきつつ、締切あげるからそれまでは逃げていてもいいよと決め、この年齢になったら逃げたらダメだよと「自分自身と交わした約束」から自分自身が逃れられず、決心するかのように妊娠に向かっていく。
 子どもをもってみてから思うこと。「こりゃやってみなきゃわからんわ」。それは子どもを持たない人を押し出すような意図ということではけしてなく、子どもをもつ前の自分に対して、どう説明していいか、わたし自身がわからんから。
 ただ、もう、損だの得だの、ってことではないことは確かだと思う。メリット・デメリットなんぞというもので語れるものでもない。命を受け取る、人格を受け入れる。こんな大仰な作業、その大半は「想定の範囲外」のことばかりだと思う。
 ところがその「想定の範囲外」のことが意外にも、おもしろいわけだ。ある程度生きてきて、ある程度「はは〜ん」とわかったつもりになっていたことが、あらあらけっこう知らんことが多いと発覚する要素も大きい。そして、小さいモンが大きくなる中で、自分が生まれ直しているような気がするのもおもしろい。陽の光、草の匂い、季節の移り変わり、そんなことを感じ直すような感性を、さびついた頭でもう一度感じられるような気もする。
 「自分の子ども」って言ったって、思い通りの「お人形」を、カタログショッピングできるわけでもなく、箱の中の三角クジを引き出すかのように、出会う命が持っているものも、「はい、あなたの子です、もう逃げられません」と言われてみなければわからない大博打。このすさまじい大博打だからこそ、すごいってとこもあるんだと思う。
 自分の子どもをありのままに、その自分の子どものもっている全てをおおらかに受け止められるか。それができなければマズいんではないだろうか。
 そんな不安は、子どもの障害との出会いで、ある達観に結びつく。そんなことをね「できなきゃいけない」なんて思ってるから間違いなのよ。そんなことはね、出来ないのよ。出来ないけどね。日常ってものが、それがある答えにたどりつくように流れていくもんなのよ。要はその流れってヤツに、たどりついていく流れに気づいていく、ってモンなのよ。
 二人の子どもが幼児期のとき、子どもを持たない人から聞かれる。「子どもをもつってどういうこと?」
 あのね、10あったらね、8か9、大変。子どもによっても状況によってもその割合が変わるかもしれないけど、それがまあ、スタートしてみなきゃわからなくて、しかもスタートしたらもうそこからは降りられない。
 だけどね、10あったらね、8か9大変でもね、その2か1が、おっそろしくキラキラしてんのよ。コレを一度知っちゃったらね、もう逃れられないね。
 ちなみに危惧した「相性」というものは、とりあえずセーフ。相反し合うキャラだったら、って恐怖の方が、「知的障害」よりもわたしは怖かったみたいね。「知的障害」は、娘のキャラ大好き、ってことの前ではあまりたいした要素にはなっていない。

普通の人々
映画「普通の人々」の詳細情報