リツエアクベバ

satomies’s diary

無力感とか偽善性とか

トラックバック受信、読みにいく。そこの管理者の方が交流のある方との対話の中で出されたエントリという内容と解釈。そうした対話の中で、自分が書き残したものに対しての感想が出てきていたという理解。対話の元になっているエントリを読むために二つのブログを行き来する。その対話の端々ににじみでているいろいろなポイントについて、もそもそと考え続けたり。
ふと思う、人間関係の中で発生する偽善性とは潜在的な無力感が背景にあるのではないか。何もできないと思うときに、それでも「せめて優しく」とか「せめて暖かく」とか、そういうスイッチが動いてしまうときがあるのではないだろか、とか。潜在的な無力感に対して向かい合うつらさというものを、そういった優しさスイッチというか道徳的スイッチというか、そういうもので人は希釈しようとすることがあるのではないだろうか、とか。
娘が幼少の頃、一番仲の良かったいわゆるママ友という人の子どもは、いわゆる重度重複障害児というカテゴリに入る子どもだった。難治性の高いてんかん発作が止まらず、非常に冷たい目で見れば、数々の発作の合間に宙を見つめているだけの赤ん坊という感じだった。幼児の年齢になってもそれは変わらなかった。この子はそばにいるだけで非常にたくさんのことを教えてくれる、わたしにとっては師のような存在だった。自分が感じる無力感との戦いも、数多くあったと思う。
この子といっしょにいると、そばを通り過ぎていく「この子をちょっとだけ知っている人たち」は皆、この子を見ると微笑んで、そしてたいがい「今日はいいお顔をしているね」とかなんとかと言うのだった。「この子をちょっとだけ知っている人たち」の大半は皆、その一言を残してこの子の側を去るのだった。
そうした人たちが去ってから、ある日「別に今日特に機嫌がいいわけではないんだけどね」と、母親である彼女がぼそっと言った。ちょっと考えてからわたしが言った、「多分ね、怖いんだよ。ああいう風に思うことでさ、救われたいんだよ」。
それは自分にもあると思える要素だった。でも、しょっちゅう一緒にいた自分には、「今日はいいお顔をしているね」というのは本当にそうだという確信がなければ言えない一言だったし、それだけ言って立ち去れる立場になるには親しくなりすぎていたのだと思う。
「別に今日特に機嫌がいいわけではないんだけどね」と彼女が言った時のシーンというものは、長くわたしの中に残り続けている。10年以上経っても、時々そのシーンを思い出す。そこから派生して、いろいろなことを考えたりする。あの子はやっぱり、存在するだけでいろいろなことをわたしに教えてくれたんだと思う。でもわたしは、あの子に何もできやしない。転居して離れてしまうことはとても淋しかったけれど、積み重なっていく新しい環境の日々はあの子の記憶を薄くしていく。
自分の生活と関係性の浅い状態で重度の困難をもつ障害と向かい合ってしまうとき、無力感をもつことは多い。それは自分自身にも思い当たることは多い。
あの、人が「今日はいいお顔をしているね」とかなんとか言うときにわたしが感じていたことは、「向こう側にいますという表明」のような感じだった。無力感をもつときに、わたしもアレをやっているんだろうかと思う。きっとやっているんだろうと思う、自分が気づかないだけで。怖れをもつ障害の姿というものはたくさんある。ただ、その姿の中には固有のストーリーがたくさんあるのだということを忘れたくはないとは思う。
娘は。自分が座れるようになっても、立ち上がれるようになっても、寝た状態が変わらない「友達」を、よく起こそうとしていた。あの子はヤーヤーと、迷惑そうに首を振っていた。それから弟が生まれて、弟と遊ぶときは、弟の運動機能の発達に合わせた態勢を自分が取りながら、弟を遊びに誘っていた。娘は「友達」から学習していたんだろうか。
娘は。中学生になってからリエんちの子どもに会わせたときに。ベッドに横たわるユウヤくんの体の大きさが自分より大きいことからか、自分より年少のユウヤくんを「おにいちゃん」と呼んだ。リエがユウヤくんにする医ケアを真剣に見つめ、そのケアを覚えようとした。
娘には、無力感はあるんだろうか。娘には無力感から動くスイッチのようなものはあるんだろうか。ただ、むぎゅむぎゅとユウヤくんの手を握る娘の姿に、わたしは「やりたくてやってる」以上の感覚はもたなかった。
そうした娘の姿に、ふと黙り込んで考え込んでしまうポイントをいくつももらえるけれど、ただ、娘のような知的障害者の姿に「ピュア」だのななんだのという言葉を安易に使われるのはお断りしたいという自分の感覚ははっきりしているのだな、とは思う。安易に発せられる「ピュア」だのなんだのってのは、あの日の「今日はいいお顔をしているね」に似た匂いを感じるからかもしれない。わかることなんて、きっとそれくらいのことなんだろう。