リツエアクベバ

satomies’s diary

本人の意思を聞きました

子どもの脳死と臓器移植に関して、自分がもつ疑問点等整理。さてと、ということで息子本人の意思を聞くことにする。
ニュースで見ていた臓器移植法改正の簡単な解説、脳死と子どもに起きる可能性のある「長期脳死」。親の承諾により脳死状態での臓器移植のドナーになることができるということ。親がどうのということに法律で決められていても、自分の体は自分のものであって、それは脳死状態であっても自分の体は自分のものであるとわたしは思うこと。
ってなことを、わかりやすく説明する。さてアンタはどう思うかね、と。あなたの体はあなたのものであるのだから、わたしはその考えを聞いておく必要があるよね、と。
長期脳死の可能性に関しては、たいしたこだわりは示さなかった。そのポイントは「意識が無い」ということ。生きているという実感を自分がもたないという状態の長期化ということらしい。
脳死状態に陥ったときに、ドナーとして自分の心臓を提供できるか、という問いに関しての答えは「NO」だった。誰かがその提供した心臓によって命が救われるというイメージよりも、自分のものであった体が「欠ける」イメージの方が強く、どうにもそこが「引っかかる」のだそうだ。
では母は?と問われるので、もしもアンタが脳死になることがあったら、アンタの体から心臓を取り出すのはわたしはイヤだと答える。おとうさんが脳死になってもアンタが脳死になっても、わたしはどうにもそう簡単に死を受容できるとは思えない。体が体としてそこに存在するのならば、そこに意識が無くてもわたしにとっては意識があった時代をありありと思える重要な「生きた体」だからだと思う。心臓さえ動いていれば、その「生きた体」は生きているんだもの。それと心臓を渡すことで、自分が「死」に決定打を出してしまう感じに耐えられないような感じがするからだ、と。心臓死からの移植でも、なんかどこか「取られる」感じが抜けないとこが自分の中にあると思う。死で奪われていく悲しみの中で、なんかもう誰にも何にもあげたくない感じ。たぶんココを越えられないと脳死からの移植も考えられないのだと思う。
ただ。自分の体は?と問われれば、ドナーになってもいいんじゃないかと思うんだよと。死んじまったら自分は自分に対して「死の受容」だの「喪の作業」だの全然要らんわけだ。だって死んじまったんだから。で、そのままにしておいたら全部焼いちまうわけだから、誰かがその「焼いちまう」中で「それ欲しい」って言ったらあげてもいいんじゃないか、とも思う。どうせ焼いちまうわけだから。なんつーか、死ということで、自分の体はもう抜け殻であって、バラバラにしても形のまま納めておいても棺に入れて釜に入れるまでのことだ、という感じがしなくもない。
でもって、提供した後のもう一人の人生とかってことにあまり夢も持っていない。移植後に状態が悪くなる場合もあるとも思う。臓器移植は可能性はあるだろうけれど万能じゃない。ひとつのトライということだと思う。それでそのトライがうまくいったなら、そこに生き続けるのはその臓器を受け入れて生かすその人の体だと思う。
だからわたしの体に関しては、同意を取られる人間が好きにすればいいと思う。順番からいったらアンタがその同意を取られる立場になると思う。わたしが同意だの拒否だのと意思表示をして、それでアンタがそこに縛られるのもよくないと思う。「死んでいく親」に縛られる必要は無いさ、とも思う。脳死で生かしておいてそれが負担になるのだったら、とっとと生の最期を切っちまってもいいんじゃないかとも思う。「あげる」ことに違和感があるのなら拒否すればいいし、あげた方が良さそうなら同意すればいいと思う。遺されたものが何かを背負ってしまうことが無い方を選択すればいいと思う。わたしは死んでもアンタの選択は支えてあげるよ。
「ちぃちゃんは?」と聞かれるので、うむ、と黙り込む。ドナーが足りない状況が深刻になっていく流れが来るときに、犠牲になるのは弱いものだと思う。そもそも知的障害をもつもののドナーとはいったいどういう経緯で発生していくものか、という疑問もずいぶん考えた。その上で出てきた自分のイメージを、ぽつぽつと話す。
あのさ。ちぃちゃんの臓器はもともと人は欲しがらないよ。だってダウン症の子の臓器なんだから。それと染色体異常の臓器が普通の人に移植される臓器として適合するということがあるのかどうか、わたしはよく知らない。それからものすごく難しい問題があると思う。それは本人に説明して本人が理解して本人が意向を話すことができないってことが大前提としてあるってこと。
そういうことがあるってことを前提として、だね。わたしは、ちぃちゃんが死んでしまったときに、そのちぃちゃんの体の中で健康な臓器が誰か別のダウン症の子の体の一部としてチャレンジとして使うことになるのならば。と、思う。ダウン症の深刻な合併症とか、もう見過ぎてきてしまったってとこがあるのかもしれない。藁をもすがりながら、最後は「ダウン症であることが関係して」悲しい結果にならざるを得なかった葬式とか思い出すとこもあるんだろうとも思う。藁をもすがる藁になるのだったら、という仮定に気持ちは動く。
なんなんだろう。ダウン症の子どもに関しては、ヨソのうちのヨソの子、という感じとちょっと違う。娘が死を間近に経験したこともぐっとぐぐっと胸に迫るように思い出す。合併症のこと、告知の時の衝撃時等長かれ短かれ「親に受容されなかった経験をもつ命」であること。同じような経験をして育ってきたのかな、なんてことを思ってしまうと、「あなたは生きていくのね」と命に対して応援したいような気持ちが湧き出てくるような感じがするんだ。
なんなんでしょうね、この感覚は。でもちぃちゃんの心臓は「先天性異常があった手術後の心臓」だから、脳死からの移植の要請自体そもそも起こりえないと思うし、本人に意思を問えない臓器に対しての決断を自分がしていいのかという躊躇はすごいでかいから、「あげたくありません」でいくような気もするけれどね。
ただあの子、小さい子に優しいからね。もしもモノが言えて理解力があって、ってなとこで、自分の臓器が他のダウン症の子を助けることができるって場合に「いいよ」言いそうな気もするんだよね。でもそんなこと、単なる思いこみかもしれないし。だからあげてもあげなくても、ずっと引きずり続けるような気はするし。ぐずぐずぐずぐずぐずぐずぐずぐず。
話題、転換されてしまいました。とにかく息子ご本人は「欠けた感じ」がぬぐえないので「NO」だそうです、14歳中三男子。彼の人生の中でまた変わるかもしれないというところで、現在の結論は終了。