リツエアクベバ

satomies’s diary

大事なこと

 洗濯物をたたむ。たたみながら娘と会話。たたみながら「これは?」と聞く。娘は元気よく一言を答える。単語一個で返る応答。
 「これは?」 「じゃま」。
 指したのはパジャマのこと。語頭の音が消える、まあダウン症の発語によくあること。「じゃま」でもいいんだけどね、意味通じてるし、かわいいし。なんてことは日常の話で、時々は、(う〜ん教育的になんなきゃなあ)などと思う。思って語頭の音を取り出して、ちょっと練習。
 「ちぃちゃん、ぱ!」 「」 「ぱ」 「
 よしこれでOKとばかりに「ぱじゃま」と言ってみる。娘は満面の笑顔ででかい声で叫ぶ。
 ぱんつ!  
 あはははは。そうね、パンツのパもパジャマのパだね。じゃこれは?とパジャマをさして聞くと、斜めの視線でわたしをちらっと見て、しら〜ん顔を決め込む。何を考えてるんだろな。
 「これは?」 「タオル」 「これは?」 「ハンカチ」 「これは?」 「プール!
 プールで使うバスタオルは、すでにタオルという名称はカテゴリーでしかなく、タオルという言葉よりも用途の方が優先されるものらしい。プールと叫ぶ満面の笑顔は、プールという一言にいろんないっぱい言葉が詰まっているんだろう、出てこないだけで。
 パンツでも靴下でもタオルでもハンカチでも、「これは?」という質問が、彼女によってこれは何か、これは誰のものであるか、これは何に使われるものか、という質問に変更され、その変更から出てくる答が瞬時に感情と共に表出する。おもしろくて仕方がない。
 幼児期の子どもにも、同様のおもしろさはあるんだと思う。しかし違いは幼児の言語発達能力であっても実際の年齢を経験してきた本人の持つ世界が見えてくるケースが往々にして存在すること。その見えてきた世界の中で、なんだか自分は会話というものに対してけっこう無駄な言葉を使っているんじゃないか、そのために結局本当に言いたいことからずれていくなんてこともあるんじゃないか、なんてことをふと思う。
 彼女は言語による批判能力を持たない。拒否・拒絶・批判を示すときは、簡単な語句と態度でそれを表す。時々思うこと。実はわたしはこのことで妙なトクをしているんではないだろうか。実はわたしもきちんと持っているであろう知的障害に対しての差別意識というものを、彼女から糾弾されることから逃れられているんではないだろうか。
 時々ふとそんな不安に襲われて、そっと娘の名を呼んでみる。彼女は媚びもせず、卑屈にもなりもせず、笑いたいときに笑い、めんどくさいときには無視をし、イタズラをしかけたいときはわたしの呼びかけに対してエラそうに腕を組んでそっぽを向いて見せる。その後に自分の態度のウケが取れたかどうか確認する視線を投げてくる。いやホント、コイツ、おもしろい。そうした彼女の堂々とした態度にわたしはきっと救われているんだろうと思う。