リツエアクベバ

satomies’s diary

2006-07-07「わ〜い、わ〜い。」

とりあえず「ガキ喜び」したものが発展。もろもろ記載。

ところが、センスの良いギャラリーカフェで作品展を開いたり、アッパー向けのセレクトショップに置いてもらったりすると、売れる。私たちは「うちの製品は良い」と自信を持つ一方、「営業力は大切だ」と確信するに至りました。これは、施設改築時にカフェを併設する計画の、背景のひとつです。
あと、「高い商品を売りさばける作業所」が本物なのではなく、「利益を上げて利用者に工賃を支払える作業所」が本物なのだと私は思います。「まんさく園」が本物なのかは分かりませんが、少なくとも、故・小倉氏が提唱した「10万円」には遠く及びません。利益を確保できるなら、薄利多売の戦略でも構わないのです。
2006-07-07「わ〜い、わ〜い。」コメント欄より天竺堂さんのコメント)

 小倉氏のお話が出てきたので、書籍をリンク。

福祉を変える経営~障害者の月給1万円からの脱出

日経BP

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 参考資料として、はてなブックマーク「就労」タグ部分をリンク。

はてなブックマーク > S:BOOKMARK > 就労

 id:fivefogs 霞先生よりTB受信。

小学部を担任していると“空き時間ゼロ”なので、高等部の作業学習を直接見ることはできません。でも、校内のあちらこちらに“高等部作業学習の作品”と記された花瓶や画鋲*1、ベンチなどがあります。この『作品』という表現に何となくモヤモヤした違和感を覚えていたのですが…
「作業学習」とは何ぞや/特殊学級担任→養護学校教諭の“ここだけの話”

 個人的見解ですが。障害児・者の作る「作品」を、なんでもかんでも「障害者アート扱い」して、作業学習の「製品」にまでその感覚を持ち込み過ぎるのは、わたしは違うと思う。
 例えば「陶芸」。陶芸という作業学習の時間に、「自由作品」を中心に創るのは違うと思う、それは「美術」の時間の担当ではないかと。
 作業学習の「陶芸」の目標とは、「生徒が『製品』を作ること」なのではないかと思う。全ての工程を生徒自身が自分でこなすことに困難がある場合は、工程に支援をして、一部の工程に関してでもきちんと参加をさせて、「自分が工程に参加した商品」を作ることを目標にすること。それが「作業学習」なんではないかと思う。
 作業学習で、そんなに簡単に「商品」として成立するものがぽんぽんぽんぽんできあがるわけではないわけで。だからこその「作業学習」なのだとわたしは思う。作業学習の中で「創作」に位置する時間を作る場合は、「作業」に向かうための導入であるべきで、中心になることではない。その作業学習というもののとらえ方、行き先を示す方向。そういったものが、「製品」と呼ぶか「作品」と呼ぶかに微妙に関わっていく要素があると、わたしは思う。
 製品の「一部」に、きちんと自分が貢献していること。それが商品として成立していくこと。それは社会の中で、一般的には当たり前のことなんじゃないかと。たった一人で「商品」を作っている人の方が、社会の中では数が少ないのだから。
 ただし、養護学校は「職業訓練所」ではなく、学校であるべきで。作業学習は学校で学習する要素の中の一部であり、「作品」を創る、本人の能力に応じた教科学習を行う、そういった教育内容のその中の一つの要素であるという「構成」が重要なのだとわたしは思う。