リツエアクベバ

satomies’s diary

続:中絶アレコレ

 ブログという場のあちこちで、「中絶」について語られているようで。中絶は殺人だとかレイプによる妊娠の中絶はどうだとか、マザー・テレサまで出てきて忙しいようで。
 中絶を語るのなら、わたしは胎児条項に関してまでもってきて欲しいような気もするけれど、その飛び交う話題に胎児条項を投げたなら、出生前診断で発覚する最大の障害児であるダウン症の親であるわたしにとっては「目を覆いたくなるような意見」が飛び出てきそうでとても怖い。「中絶は殺人である」と言う意見を述べる人に、「妊娠中に発覚する障害児は例外」って言われてしまったら、生きて存在している人間ってものの人権を認めない、ってことになりかねない。

Q: 「胎児条項とはどういうものですか」
A:  <胎児に異常があった場合に人工妊娠中絶をしていいですよ>ということと、<胎児に異常があった場合には妊娠のいつでも中絶して構いませんよ>ということを、法律(母体保護法)の条項に付け加えることが胎児条項です。詳しくはここを
(母体血清マーカー検査に関するQ&A 日本ダウン症ネットワーク(JDSN)委員会より)

 出生前診断とそれに伴う人工妊娠中絶ということに関しての考え方は、わたしはダウン症の親にとっては、あるひとつの「踏み絵」であるという認識をする立場。今後妊娠の計画が無いまたは可能性が低いダウン症の親は、堂々と出生前診断批判をできる立場にある。でも今後妊娠の計画があるまたは可能性が高いダウン症の親は、口が重くなる話題だと思う。我が子を受容しても「一人ダウン症の子を持つ」という立場と「二人ダウン症の子を持つ」という立場は、あまりにも差が大きい。そのそびえ立つ大きな差という心理的な重さを持ちながら、堂々と出生前診断に反対できる「立派な親」であるかどうか。そのことを試されるような強烈な「踏み絵」。
 強烈な「踏み絵」であると認識するからこそ、わたしは目立つ所ではこのことに関して自分の考えを語ることにはとても慎重になる。それはわたしが出す小さな言葉さえも、今後妊娠を計画しているダウン症児の親への「踏み絵」に影響していくような気がするから。わたしなんぞが何を語らなくても、数々の団体が見解を出してくれているので、そこに頼るいわば卑怯モノ。
 そうした強烈な「踏み絵」が存在する上で、その上でも、誰の気持ちの中でも「胎児条項には反対」というのは共通の思いだろうと思う。胎児の段階だったらいつでも殺していいんだよって、国が認めるってことになっちゃうわけだからね。
 胎児条項は、この条項を母体保護法につけ加えようって動きがこれまで何度も出てきて、そして反対意見によりつけ加えられないできている現在だけれど、いつまた「つけ加えよう」という動きが出てくるかわからない。法律ってのはとんとんっていっちゃうと、いつでも強行採決ってのがされかねないのはどんなニュースでもよく出てきていたこと。現在の妊娠中に発覚した障害児の中絶は、法の拡大解釈により行われていることで厳密には違法であるとの見解もあり、実際に中絶に関わる産科医の中にはこの条項を欲している方もいらっしゃるってことでしょう。
 中国の法律がどのようになっているのかわたしはよく知らないんだけれど、以前、残留孤児の家族の方がダウン症児を出産したときに、その受け入れの困難さと、母親の嘆きの内容は強烈だった。「中国で生めば良かった。中国で生めばすぐに殺してくれたのに」。国が人間の心理の背景を作っていくってことはあるんだと思う。
 まあ、人の価値観というのはいろいろで、わたしは妊娠中絶に関しての考え方は昨日出したようなモンで、それが出生前診断に関わってこようと、他者の人生にアレコレ言うのは難しいと思う。責任取れないからね。
 ただ、不安を持つ妊娠出産ってのは、その後の支援が重要なカギを握るということ。そのことに対しての認識は変わらない。ってことで、生きているダウン症児とその親に対しての支援、というものをする立場でいることを充実させたいと思っているわけで。支援の充実ってのが少しずつでもいろいろな人の目にふれていくことになるならば、小さなとこからきっと何かが変わるだろうと思う。大きな悲しみを少しでも小さくできるんじゃないかと。それは生まれた赤ちゃんがダウン症であったという衝撃をもつ若いママから、出生前診断に関わっていくことまでね。ひとつのことを考えたり決断したりってのは、それまで生きてきた中で見聞きしたことが材料になっていく要素はとても大きい。その小さな一端をわたしは担っていたいと思うのよね。
 ってことで、何をどう、というより行動、行動。今日もその活動の一端に、出かけてまいります〜〜。