リツエアクベバ

satomies’s diary

文章表現による「見た目」

 「人は見た目が9割」という本を読む。簡単に言えば半分面白くて半分つまらなかった。半分面白くて、ってのは発想と視点、半分つまらなかったってのは、その実証のための記述に関して無理やり持ってきたパズルのような感じでページが埋まっているようだったこと。
 この「人は見た目が9割」ってことの「見た目」ってのは、別に持って生まれた容姿の美醜だのってことではなく、外見から入る情報が人に与える影響ってこと。同じことを伝えるのに「直立不動で正面切って相手を見据えて言う」のと、「小首かしげて微笑みながら言う」ってのでは、相手に与える印象と伝わり方に差違があるってこと。
 で、コミュニケーションとしての「文字」。インターネット上では「小首かしげて微笑みながら」なんてことは、外見上ではできないわけで。それに代わるものはなんじゃろな、と。
 ですます調、だ調、である調、なんてので、この「文字表現上の見た目」は変わる。断定か婉曲か、なんてことも、文字表現以上に、この「見た目」に関わっていくものかもしれない。この辺の表現は、意識的に変えることももちろんできるけれど、文章表現時の感情的モードというものは、にじみ出ていく部分もあるもので、その感情的モードが、伝えたいことを超えて影響してしまうなんてことも出てくるんじゃないかと思う。
 まっち〜んとこに出てくる「Sさん」を見ていて面白く感じるのは、わたしが彼女に対して出したものに対しての、この「見た目」というものが、彼女の解釈としてまた、表現体に出されていっているのを見ることができること。

彼女はいつもどんなときも変わらない、揺らがない、
最高にかっこいい女性だ。
立ち上がれ、私!②〜海底に射す一筋の光〜

 はっはっは、あのね。揺らぐわい。これは文字上で「見えない」部分が、文字上での「見た目」を作っていく要素だと思う。伝えられてくる状況が悲惨であればあるほど、わたしはぱんぱんぱーんと自分の頬をたたいて、冷静モードに持っていく。「まあ」、なんていう感情モードを送って相手を揺らすことは許されない状況。レスポンスのタイムラグだってそうそう許されない状況だったと思う。早朝立ち上げたPCから彼女が夜中に送ったメールをプリントアウトし、持ち歩く。携帯からとりあえず待ってろと送る。そして思考。こういうときにいつも出てくる「クセ」のような動作が何度出ただろうと思う。頭をちょっと傾けて思考しながら右手の人差し指が頭の近くでくるくる回る。ここでパーを出しゃ、いわゆる「くるくるなんとか」の動作になるんだけど、意図してるものは違う。つまり頭の回転に無意識に拍車をかけたくなるときに出てくるクセのような動作。こういう「外見」が全く見えないからこそ、相手に伝わる「見た目」というものができあがるんだろうなあ、などと思う。
 かなり笑えるのはこの部分。

そんな基本的で、とっても大切なことを、私は知らなかったが、Sさんは知っていた。
彼女はいつも、ちょうどいい頃合の温度の、ちょうどいい熟れ具合の、ちょうどよく噛み砕いたものを、私の鼻先に、ほいっと置いてくれた。
「食う?」と。
私は、彼女の差し出すものなら迷わずどんどん食べた。
立ち上がれ、私!④〜回復へのレッスン〜

 「食う?」。たまんないですねえ、コレ、「食う?」。
 そう、まさにそうなんだよ、そうなんですよ、わたしがこの時期に彼女に出し続けてきた「外見」ってものがここにあると思う、「食う?」。
 状況が深刻なら深刻なほど、こんな表現は増えていたと思う。簡潔に伝えたいことが相手にぽんと届くように、装飾的な表現は避けたと思う。よくそこに彼女は食らいついてきたと思う。これは相性ってものがあるだろうな、と思う。だからあの場での「読者」は、「Sというのはなんて乱暴な人なんだろう」っていう印象は出てきてもおかしくはないな、と思う。それは相性というもの。出てくる「見た目」というものは、そういうもの。引用部のエントリは、まっち〜の記録。だからそんな登場人物の印象論なんてものは、実にどうでもいいもので、本筋とは無関係。無関係なことに笑えるのは、登場人物の特権。