DVでもモラハラでも児童虐待でも、家庭内で日常的に行われれば、そのことに対しての被害的感覚まで麻痺していくもので。しかしその時点で麻痺していても、被害は蓄積していき出口を求めていく。その出口の作り方が生産的に作れればそれはそれで個人の内で解決につながっていくのだけれど、そこに失敗した時には被害は被害者本人が気づいていなかったほど、大きな事実となっていることがある。
暴力を行う人間と被害者、こうした対関係に加えて二次被害を生み出す第三者、というものの存在も大きい。その二次被害を生み出す第三者というものが少なければ、もっと被害者救済は進むのではないかとも思う。
二次被害というものは、被害を被害と認めない、つまり被害者自身の感じる被害を認めず、被害者本人の問題である、と位置づけていくもの。被害者に対してさらなる「耐性」を求めていくものでもあり、難しいものだと思う。
まあ、しかし、日常的に暴力を行使する人間が存在する、ということを、犯罪という形を伴わなければ理解しない層というものも現実には存在するわけで。その辺も難しいなあ、とも思う。ネット上に被害者救済のために、被害者に力を蓄えさせていくような場は次々に着々と増えていってはいるけれど、「わかる人にはわかるけれど、わからない人にはさっぱりわからない」ということもまた現実には歴然と存在している。所詮、このイタチごっこという図式になっていく傾向はあるのだと思うけれど、それでももっともっと被害者に力を蓄えさせていくような場は広がって欲しいな、とも思う。
こうした家庭内における日常的な暴力は、大人でもなかなか日常的な被害からの脱出が難しいわけで、子どもにとってはなおさらのことだと思う。これが痛ましい事件の積み重ねにより、行政がCAPを取り入れるということが増えていっているわけで。これはとても歓迎すべきことだと思う。
CAPのワークショップでは、暴力というものに対しての認識という説明があるのだけれど、子どものためにこれに参加しつつ、「そこで暴力というものの講義を聞きながらも、自分に対して現実に行われている暴力にはその時点では気づかなかった」というあるDVのサバイバーの告白を聞いたときには、日常的に行われることに対しての「麻痺」の怖さに愕然とする思いがした。
まあ、わたしが生育歴の中で日常で受けていたことなどは、こうした家庭内における暴力の中では微々たるもので、とりあえずACチェックなどからもはずれているわけで。自分が受けたと認識している被害に関しては、自分にとって必要な程度の位置づけと認識できれば、社会的に微々たるものであるかどうかなどということはたいした影響も無い。それでも社会に存在する二次被害を少しでも減らすことができるのならば、新たな二次被害を受ける可能性があっても、甘んじて受けるくらいの気持ちはあるなあ、とも思う。
第二子出産の時点で、父親から受けた精神的な暴力に関して。わたしは当時、静かな絶望と悲しみの中で妊婦検診を受けた。高ぶった気持ちとは異質の絶望の中で受けた検診の血圧測定中、産院は大騒ぎになった。その血圧の高さは異常な数値だったということで。
その大騒ぎの中で無表情であっただろうわたしの顔を見た一人の医師は、ばたばたと動く看護師の動きを静止し、わたしに優しい微笑みを向け静かに「何か、ありましたね」とだけ言い、時間をかけて無言で超音波の機器を動かし続けた。そしてこの医師が探し続けた画像を拡大し、固定し、そして部屋を出ていった。しばらくの間、わたしはそこに置かれた。
そこで拡大された画像は、眠る胎児の顔のアップだった。わたしはここで一人にされたのではなく、二人だけの空間を確保されたのだった。静かに眠る胎児の顔は、わたしを癒し、わたしを安定させ、わたしを絶望の淵から救い出した。わたしはこの時間を多分一生忘れないだろうと思う。プリントして渡してくれたこの日のこの画像は超音波写真にありがちの変なものではあったけれど、この子が生まれて実際に対面し眠る顔を見たときに、ああこの顔をわたしは知っている、と思った。
あの医師は何を知っていたんだろう、生きる上でどんな経験を積んできたのだろう、まだ若い医師だった。ああいう人に、わたしはなりたい。