リツエアクベバ

satomies’s diary

わからぬままにアレコレ

性犯罪について思うことなど/nonoyumeのぽよぽよな日々

 本文の内容とはズレるかもしれないが。フラッシュバックが来そうな話題を正面におき、感情揺れつつまっすぐに主張する。強くなったな、と思う。
 リンクでfoxんとこをもってきていて、おお、と思う。これは2004年か、あああったよな、と、この文章をリアルタイムで読んだ日を思い出す。foxの昔の日記がこうやって誰かの支えになるんだな、なんてことを思う。彼が書いて思考して、そして誰かがまたその書いたもので思考する。webのもつ可能性、なんてこと。
 以下、ちょっと長いけれど、日本にCAP(子どもへの暴力防止)プログラムを導入した森田ゆり氏の訳書「誰にも言えなかった―子ども時代に性暴力を受けた女性たちの体験記」から、引用。

 子どもは、自分を保護し、世話してくれる大人から受ける価値観をもとに、自我を形成し、個人としての尊厳を自分の中にはぐくんでゆく。しかし性的暴行を受けた子どもたちは、自我の形成、確立に必要なステップを奪われてしまった。自分を守ってくれる人もなく、怒り、いきどおる権利も奪われ、子どもは自分自身を貶め、自分は、性的に利用されるに値するつまらない存在だと感じる。出来事を公にすることは、自分の無価値さをさらけだすことに他ならないと思う。誰かに告白することは恥辱をさらけだすだけだ。性暴力の犠牲者たちは、それぞれの忌まわしい経験を心の襞の奥深くに埋め隠し、忘れようとする以外になす術を知らない。しかし恥辱はいつまでも心の中に残り、自分の存在に毒を吹きかけつづける。(p17〜なぜ「誰にも言えなかった」のか)

 子どもへの性暴力に対しての記載だけれど、精神を貶められる傷、というもの。それは成人女性にも共通しているようにも思う。長く続く傷。それは自己の尊厳を取り戻す戦いのようなもの。体に対しての傷以上に深く続く、精神に対しての傷。「自分の存在に毒を吹きかけつづける」ものに対する戦いの始まり。
 それからコレ。 

女性にとってセックスとは、究極的には「暴力」でしかあり得ないのだろうか?(もしかして)/純粋なココロ 2.0

 ちょっと前に、中学生の息子をもつ友人から聞いた話。男の子の性器というものが、第二次性徴を経て、変化する。それを見て、という感想で。「下の子はまだかわいらしいもんだけれど、おにいちゃんのソレは、もう『凶器』って感じだよ」。性的な変化というものをしていなくても、「凶器」という言葉が出てくる、大人の男性器に対しての漠然とした恐怖。
 この「凶器」を自分の体内に受け入れるということ。これは麻酔がかからなければならないように思う。この麻酔というものは、自分を慈しみ愛おしんでくれる相手という信頼、そして体の反応、いわゆる快感というもの、とか。
 怖いといえば、自分の体に起きる快感というものも怖いという要素はあるとも思う。自分が制御できなくなるような、漠然とした恐怖。たとえていうなら、ジェットコースターに乗せられているのだけれど、ジェットコースターが怖いとしがみつく相手と運転手が同じ、なんてイメージ。
 傷つけない、というお約束。このお約束をもって、恐怖は恐怖ではなくなり、全てがコミュニケートの手段になっていく、というようなことかな、と。このお約束を感じることができればジェットコースターを遊ぶこともできる。それと、行為後の安らかさ、なんてことを体感する経験とか。松崎しげるの「愛のメモリー」(→歌詞:うたまっぷ)。この「愛の甘いなごり」に、こういう感情を相手がもつことを感じる経験というものも大きいと思う。こんな大げさなもんがいちいちいちいち無くても、一度でも経験すれば大きいかな、と。そしてこれはまた、さらなる麻酔を生んでいくものかな、と。
 それと、男性が性行為にもつ(んじゃないの?わからないけど)「征服欲」。ここもポイントかな、と。この相手に征服されたくない、というような、そんな気持ちを持つときに、屈させられる感覚をもつとき、というのも暴力と感じるものかもしれない。
 夫婦生活、という名の日常的な性行為、というもの。これも、傷つけないという約束のような信頼が崩れたり、征服されるということに屈したくないと思うというような関係性が生じれば、暴力的なものになる可能性を含むのではないかと思う。
 好きだけれど友人としか思えない、って場合は、ある一定の線以上に自分に踏み込まれたくない、という気持ち、かもしれない。何かを明け渡す感じ。渡してしまったら、もう取り戻せない感じ。この人がダメ、じゃなくて、この人じゃダメ、という感じの選択。このハードルというものが高い人と低い人がいるのかもしれない。
 いや、性癖が関わることかもしれないけれど、漠然とした中でぽつぽつと。