リツエアクベバ

satomies’s diary

誰が加害者か

 家庭内における暴力に関して、原因は何か、加害者は誰か、などという研究があるわけで。現在主流になっているのは自己愛性人格障害がからんでいるのではないか、ということ。そしてわたしが勝手に思うのは、感情のバランスを暴力によって取る、という行動を取る精神的な歪みがある人物、という存在なのだろうと思うということ。
 内部障害をかかえたある青年は、生育歴の中できょうだい児に家庭内で暴力を受けながら育つ。狙うのは、その青年の弱点である内部障害をもつ内臓。ここを親の目を盗んで蹴り上げるというもの。
 被害者にしてみれば、理不尽で悲しい生育歴になるのだけれど、ここで何故、わざわざその弱点を目がけて攻撃をするのか、と思う。生命を揺らされるような内部障害をもつこの子の生育歴の中で、くしゃみ一つするだけで母親は大騒ぎで心配したのではないか、と思う。そしてきょうだい児には同様のことがあっても特に心配されず放置され、またちょっと深く考えれば、きょうだい児がくしゃみ一つすればそれは内部障害を抱えたこの子に感染させる危険のある「加害者」と、母親の目に映りはしなかったか、そしてその目を安易にきょうだい児に向けはしなかったか、と思う。この内部障害をもつ子を「蹴り上げた」のは誰か、と思うのですよね、わたしは。
 この精神のバランス感覚というものは、やっていいことやってはいけないこと、という範疇を時に越えるのではないか。道徳の教科書通りに「やってはいけないこと」なんていうことをきちんと守っていたら、その精神自体が危険ということになっていたのではないか、なんてことを思う。精神的な危機感を持たない、ゆとりを持った育ち方をしたなら、そういう問題なんてものは存在しなかったのではないか。また、母親以外の人間として重要な存在があったなら、またちょっとずつ傾向は別種のものになっていくんじゃないか、なんてことも思う。
 やってはいけないこと、を、やってはいけないのは何故か。これは「悪いから」ではなくて、「大事な人を悲しませないようにしたいから」ってことなんじゃないかと思う。「大事な人」をきちんと持って育つならば、避けられる悪事というものは多いんではないかと思う。
 被支配者を持ちたがるDVの加害者やモラハラの加害者たちが、度を超えた支配を必要とするのはなぜだろうかと思う。過度の支配−被支配、という関係を持たなければ危うくなる精神というもの。根底で危ういものを持つからこそ、そうした図式が必要となってしまうんではないかとも思う。
 だからといって、誰も、そうした人物の人身御供になる必要は無いわけで。こうした暴力というものの存在を、多岐多様に知れば知るほど、生育歴というものが精神的に与え続ける影響というものは大きいのだなあ、と思う。
 「育てる」という立場になった自分は、今度はそうした「原因」を作ってしまうかもしれない立場というものになったわけで。そうかといっても、そんな特別なこともたいそうなこともできるわけじゃない。人間が育っていく中で、過ちは叱るが過ちのその先を提示していくこと、過ちは叱るが本人自体は受容しているということ、そんなことを伝え続けるしかないようにも思う。「大事にされる」ということの本当の意味と、「大事にしたい人をもつ」ということを知っていくためにね。