何がいいとかよくないとか、価値があるとかないとかだとか、おもしろいとかつまらないとか、内容がどうのだとかまとまってるだとかだらだらしてるとか、長文だとか短文だとか、わかりやすいだとかわかりにくいだとかなんだとか。
そんなこととどーにも関係ないとこで、わたしはきをふしが好きだ。
え?呼び捨てですって? だってここで言ってるきをふしはHNの「きをふし」じゃないもん、きをふしだもん。
だって、きをふしなんていませんもん。わかる? きをふしというひとは、いないよ。「そのもの」がかもしだす言葉の綾をふんだんに交えてこう言うけどさ、つまり、ここなどに書かれた言葉たちがきをふしそのものである。
きをふしが変化していく、黒板ぽが動いていたときのきをふしよりも、最近のきをふしはよくはねる、そして飛ぶ、それから落下し、着地時点でふわりとふり向いて舌を出す。
きをふしの文字が跳ねる、きをふしの文字が踊る、照れくさそうにふり返る、それを手をたたきながら見つめるわたし。ああ、ファンだなあ。
そうやって手をたたきながら眺めてきゃーきゃーと思う、これってファンだ。言葉の意味はいつもその後からついてくる。
僕の日記は時の経つごとに様変わりしていると思う。この不安定な日記にいつもいつもおもしろさを感じているきみは、だから僕とともにおもしろがり方を拓いてきた、といえる。僕からみれば、きみは「ついてきて」いる。きみからみれば、どういう意識もなかろうよ。おそらくは常にきをふしを「みつづけて」いる。振り落とされることはなかろうよ。この危なげな揺りかごの上で、きみはこうも安らかさ。
ここがどこだかわかるか? 振り返ってビビんなよ。
BGMは「A WHOLE NEW WORLD」。わ〜いわ〜い。
もってきたのは「映す硝子」だけれど、こっちの方の「とてもきをふし」もとてもステキよ。
言っとくけどね、勘違いしないでね、わたしが好きなのはきをふしだから。