リツエアクベバ

satomies’s diary

いろいろ思った

 うまく言えないけど、自分は爺とか言われるし、自分でもそう嘘ぶくけど、最近、なんか、若いときの胸きゅんてきな切なさみたいな感情とか生き返ってくる面もあるし、それは多少、ブログとか日記とかにも関係しているような気がする。10代、20代のときの、もう返ってこないはずの切ないような心情が、ふっと蘇ることがある。(あと足がすこし軽くなった感じで、ふと歩きながら踊り出したい気持ちもするし、水のなかの感覚から大気中を飛んでいるように風を感じることがある。)
ぶくまで知ったのだけど、ブログが終わるときというか/finalventの日記

 ぱちぱちぱちと拍手してスキップらんららん。わかる。
 しかし昭和32年生まれで「爺」かあ…。まいったなあ。この方が小学校の6年生のときに低学年やってた自分は「嬢」と出してるわけで。いや言ったモン勝ちだから。
 日々、ブログという媒体に何か書く、書き留める。それはなんぞや。このなんぞやをぱしっと言ってみたらこうなるか、と思ったきをふしのこの表現が好き「僕もいっぱしの日記書き」。

 僕もいっぱしの日記書きなわけで、ちょっとした表現なんかに気を遣うこともけっこうある。隠れた価値の価値はその点でよく理解している。その視点でいいのだ。僕は書くときに焦ることはない。
ひと・本/故詠みのベル

 書き留めていくのは楽しい。余計なことまで書いたなあと、過去のものを再読して思うこともある。でもそこにいるのはその日の自分。それでいいんじゃないかと思ってるのがわたしのスタンス。
 わたしはここにいる。昨日のわたしがそこにいる。その軌跡、そしてまた明日があって連続した線。それが残っていく記録。
 ネット上に公開した場をもつと。実生活上はつっこまれないことをつっこまれたりすることもある。そうかと思うこともあるけれど、そうそう出した文章だけで出てくることに、どこまでもつきあってもいられないし。自分にはぴたっと理解できる表現を選んでるつもりでも、よく知らん人には自分と同じようには理解されないだろうし、また「なんだよオマエ」と思われても、そのことにどこまでもつきあうわけにもいかないし。いい加減には処理しないけれど、いい加減のとこで片づけたいときもあるし。まあそもそも人間関係ってそんなこといっぱいあるからなあ、とも思う。
 アクセス波がばばっと来たりしても、一年たったときにそのことを誰が覚えてるんだろうってくらい、ネット上で流れる時間は早い。でも一年たっても二年たっても、自分が書き留めたものの中にいる自分が自分にはわかる。わたしはそれでいいやと思う。